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2024/04/03
『天使殺人事件』
I
 私が事務所のドアを開いた時、彼は両足をデスクの上に無造作にどかっと乗せ、安物の椅子をギシギシ言わせながら、自らの目の前にかざしたボールペンのペン先をじっと見つめていた。
「随分と暇そうじゃないか」
「馬鹿を言ってもらっちゃあ困る。僕はもうずっと長いこと、このボールペンの先端に何人の天使が乗るかということについて考えているんだ」
「それはご苦労なことで。それじゃあ、何かな。来月には魂は何グラムあるのか教えていただけるのかね」
「意識は脳が作り出しているものだろう。そして、意識はおそらく量子的な現象だ。よって、魂の重さはグラムではなく電子ボルトで表されるべきじゃないかと思うがね」
「ボルトでもウサインでも何でもいいよ。とにかく、君には仕事をしてもらわなきゃ困る。例の事件、資料はもう受け取ってるんだろう? お恥ずかしい話だが、うちとしては五里霧中でな。是非、意見が伺いたいね。何故、仏はあんなところに逆さ釣りにされ…」
 そこで彼は椅子をくるっと回してすっと立ち上がると、窓辺に立って眼下の雑踏を見下ろしながら尋ねるのだった。
「ふむ。ところで、君は天使は犯罪を犯すと思うかね」
「今日はずいぶんと天使づいてるんだな。もちろん、偉大なる天使様は犯罪など犯さないさ。確かにキューピッドの矢に射抜かれた記憶には事欠かないが、それをいちいち訴えるほど野暮天ではないね」
「なるほど。しかし、そのような思い込みを利用したトリックはいささか古典的すぎるので、私としては避けたいところだ…。探偵が犯人、語り手が犯人、読者が犯人、そして天使様が犯人…。もうすべて出尽くしているよ」
「一体、何の話だね。天使と今回の事件に何の関係があるんだ」
「だから、もう言ったじゃないか。私としてはそんな結論は凡庸だから避けたいんだよ」
「結論? もう君の中では目星がついてるとというのかね。それなら勿体ぶらずにさっさと…」
「だって、天使が犯人だなんて、つまらないじゃないか。ああ、堕ちたる栄光! 神の意志に背きし者…。いやはや、実に古典的な筋書きだ。いや、待てよ。もしかしたら、それを更に逆手に取れば…」
「さっきから何を言っているんだ? 天使が犯人? 遂に君も一線を越えてしまったのかね? 私は現実の殺人事件の話をしに来たのだ。君のヘンテコ神智学の講義を受けに来たんじゃな…」
 その瞬間、私の眼には彼の頭上に光輝く輪が見えた気がした。覚えているのはそこまでである。体が一瞬ブルっと震えたかと思うと、目の前が暗転し、次の瞬間に私が見出したものと言えば、大勢の記者とフラッシュライトの明滅であった。隣には満面の笑みを湛えた署長。その外をぐるりと馴染みの署員たちが囲み、彼らもまたにこやかな顔で拍手をし、口々に「おめでとう」だの何だのと言っているようだった。そして、その真ん中に立っている私自身。もちろん、彼の仕業だということはすぐに分かった。あの野郎、また俺に妙な術をかけやがったな。動転する気持ちを悟られぬようにじっと堪えながら、周囲で飛び交っている会話を耳を皿にして掻き集めてみると、どうやら例の事件は私の名推理によって見事に解決し、それを祝してメディア向けの会見が直々に署長の肝煎りで開かれたということらしかった。何ということだ。まったく情報がない状態でこの難局を乗り切らねばならないとは。私の背中を冷汗が一条二条と流れ落ちた。


II
「まったく…。生きた心地がしないとはあのことだ」
「まあ、そう怒るなよ。自分の思い付きがあまりに素晴らしくて待っていられなかったんだ。何しろ、相手は天使だからね。善は急げとはこのことだよ」
 後日、彼の事務所を訪れた私の不機嫌そうな顔を見て、彼は笑いを堪え切れないようだった。食べる気もないネズミをただ弄んでいる時の猫ってのは、きっとこんな感じなんだろう。
「何かとお楽しみのところを申し訳ないが、そろそろ私にも”君が”謎を解いたからくりを教えていただけないものかね。今のところ、当たり障りのないことを言って誤魔化しているが、それももう限界だ。おまけに、テレビ局が取材させてくれとしつこく言ってくる。ここで襤褸を出したら、私の刑事人生もお終いだ。そうなっても、私を助手に採用するつもりはないんだろ。だったら、今すぐ一切合切を話してくれ」
「もちろんだよ、君を助手にするくらいなら、やかんを雇った方がまだマシだからね。じゃあ、最初から説明するとしよう…。しかし、ちょっと待ってくれないか。さっきから足をずっとつねっているんだが、それでも…」
 一気に破顔する彼を見てその時はっきりと分かった。こいつの正体こそ悪魔に違いない。
(続きはご想像にお任せします)


2024/03/05
「一つ、不思議なことがあるのだがね」
「伺いましょうか」
「まずは、このネットラジオを聴いていただこう。『SwissGroove Web Radio』という、その名の通りスイスのラジオ局だ」
「ほう、実にノリノリな曲ばかりセレクトされてますな。ずっと、聴いていられる」
「そうだろ? カフェやバーの BGM としても重宝するだろうし、軽度の鬱状態ならこいつを日がな一日聴いてればどうにかなるんじゃないかってくらいアッパーな選曲だよ」
「これのどこが不思議なんだい」」
「つまりだね、そういった”ながら聴き”なら最高、最強なんだが、例えば、これで知ったアーティストをインターネットで検索して探し、サブスクなんかでフルアルバムを聴いてみたとするじゃないか。そうすると、何かイマイチなんだよな。そういう聴き方をするなら、やはり勝手知ったるビートルズやツェッペリン…ということになる。これは何なのかなと思ってね」
「なるほど、それってウェブの記事を読む時と、紙の書籍を読む時の違いにも似ているな。ウェブ記事はどうしてもじっくり読む気がしない。フリックしながらサクサク消化したい。逆に、青空文庫の古典作品をパソコンやタブレットで読むとどうにもしっくりこない。同じ”読む”という行為だけど、どうも何と言うか、二つの違う階層がある気がするね」
「ネットラジオだと、未知の曲がランダムに流れてくる。それも各アーティストの美味しい曲ばかりが連なる。アルバムだと同じヴォーカルが続いて飽きやすいとか、構成上キラーチューンばかりでもないとか、そういうこともあるかもしれない」
「アルバムを聴くとなると、そのアーティストの特性とか、創意工夫とか、メッセージとか、色々受け止めたいものがあるよな。ネットラジオを聴き流している時には、そんなこと考えない。気分を盛り上げてほしいと思うだけだ」
「実際、こういうタイプの音楽にはメッセージ性もない。ある意味、徹底的に機能的だ。ボブ・ディランやマイルス・デイビスで人生変わったって人はごまんといるだろうけど、インコグニートで社会からドロップアウトする人はちょっと想像がつかない」
「むしろ、ずっと座り心地のいいソファーにもたれていたい気分になるね。まあ、元々そういう意図を持って作られているのだから、その点では申し分ないものなんだな」
「皮相的と言えば、皮相的と言えなくもない。そう感じる僕は古臭い人間なんだろう。作品とは個人特有のモチーフを隠喩的、または象徴的に表現したものである。だから、受け手はそれを解読しなければならない…」
『SwissGroove Web Radio』はその見事な反例になっているわけだ。それにしても、ずっと聴いていても曲の質感がぶれないね。時々日本語の曲が流れたりするのも面白い。我らがスティーリー・ダン先生も時折オンエアされるね」
「二年位前にサーバーが火事にあったとかで、いったん接続不可になったことがあったんだけど、見事復活。その後も変わらずに、その名に違わぬ見事なグルーブを配信し続けてくれているよ」
「スイス百年の平和は伊達ではないといったところかな」
「何だい、そりゃ。じゃあ、今日はここまで」


2024/01/31
『告白』
 今日、君に打ち明けたいのは、世紀のミステリーと呼ばれた”第十八航空隊消失事件”についてだ。君も名前くらいは聞いたことがあるだろう? 実をいうとね、そんな事件は存在しない。全部、軍によるでっち上げさ。公式の発表では、彼らは飛行訓練中に突然行方不明になったとされている。時空の裂け目に落ちただの、宇宙人に連れ去られただの、そんな話が今でも人々の口を賑わせている。実際のところ、彼ら十六人は皆生きていて、新しい名前と新しい家族(もちろん、見せ掛けのだがね)を与えられてアメリカ中の各地に新規に配属された。察しは付くと思うが、諜報活動のためだ。当局はソ連への核開発情報流出を何よりも恐れていたから、大学や研究所に共産主義のシンパがいやしないかと過剰に気を揉んでいたのさ。そこで、平凡なアメリカ市民の振りをしてそういった連中の隣人となり、不審な人物との接触などがないかを監視する、そんな人材が必要だった。


 準備はその二年前から始まっており、厳しい審査の上に選抜された彼らは秘密裏に訓練を受け、正体を秘匿して生活する術を身につけた。そして、運命の当日を迎えた。そう、彼らは操縦桿を握って飛び立つことさえしていない。新しい身なりに着替えて何食わぬ顔で基地を散り散りに出て行ったのさ。あとは、適当にニュースを流し、オカルト好きな連中に騒いでもらうだけでよかった。パルプ雑誌はこぞって扇情的な見出しを付け、あることないこと書き放題で、それに釣られて部数も鰻上りといった有様だった。その多くは取材にすら来ていないまったくの与太なんだから、ある意味、大らかな時代だったと言えるかもしれないね。


 私はその作戦に携わった人間の最後の生き残りということになる。大量の潜入工作員を短期間で一気に育成するように上から指示され、我々が途方に暮れていた時、同僚の一人がテレビで”謎の失踪事件多発地帯”などと銘打った番組を観たんだな。これが使えないかと議論を重ねた結果、あの大芝居に至ったというわけだ。部下たちは実に忠実に職務を実行してくれたよ。実際、今まで口を滑らせたものもいない。しかし、もういいだろう。実行部隊の方が先に棺桶に入り、最後まで生き永らえたのが私だったというのも、神の思し召しというやつに違いない。君が家を飛び出して、掃き溜めみたいなところでブラックジャーナリストの類をしていると聞いた時、これが私が孫にしてやれる唯一のことだと思い当たった。ここに当時の資料もある。当の昔に暖炉にでも放り込んで焼き捨てられていて然るべきものだが、どういうわけか私には出来なかった。こんな日が来ることを予感していたのかもしれない。


 …やれやれ、少し、息が上がったようだ。そこのボタンを押してナースを呼んでくれたまえ。話は概ね済んだよ。世に出すかどうかの判断は君に任せる。それから、君の母親にもよろしく伝えてくれたまえ。父親らしいことは何一つしてやれなかったが、それもこの国を守るために私が熟慮の末に選んだことだ。さあ、お行きなさい。その袋にすべて入っているから。


2024/01/26
『親心』
 上京して半年、僕の人見知りをしきりと心配してくる母親に「大丈夫だって。それに今度ネットで知り合った人たちとオフ会を開くんだ」と言ったら、三日後に地域特産の高級なお麩が段ボール二箱にぎっしり詰められて届いた。


2023/12/21
「映画のサウンドトラックを作る音楽家たちのドキュメントを見たんだけどね。特に映画に詳しくない僕でも、聴けばそれと分かるメロディがたくさんあった。サントラというのは、それとして一つのジャンルになるくらい成熟したものだし、優れた才能がたくさんいるんだなと改めて思ったね。ただ作曲するだけじゃなく、映像をブラッシュアップしなくちゃならないし、興行的な成功にも貢献しなければならない。いろんな人が関わって成り立っている総合的な芸術だけに、プレッシャーもひとしおだなと思うと、想像しただけで背筋がぞっとするよ」
「まあ、君にサントラを頼む人はこの先ブラックホールが蒸発したとて現れやしないから安心したまえよ。そうだな、ある種クラシック音楽とも被るところがあるとも思うけど、何というか、いろんな食材が入った賑やかな冷蔵庫を開けた時のワクワク感とでもいうかな。クラシックだとボトルやタッパーが整然と並んでいて、美しいけど食欲はそそられないみたいなところがあるよ」
「ポピュラーミュージックもルーツを辿りに辿れば、バッハやモーツァルトに行き着くとは言うけれど、個人的にはなかなかそこまでの興味を持てないな。どうも、貴族的というか、お高く止まりやがってと思ってしまうんだね」
「ジャズなんか絶対聴かないと思ってた元フォーク少年の君が、今では毎晩セロニアス・モンクを聴いてるんだから、いずれはリルケ片手にショパンを嗜むようになるかもしれないぜ」
「あまり想像もつかんがね。それからもうひとつ。そのドキュメント内で『スター・ウォーズ』も取り上げられていたんだけどさ。一応、僕も公開当時のお正月に観てるんだよ。親戚の伯父さんに連れて行ってもらってさ。でも、その時はまだちょっと話がよく分からなくてね。ストーリー云々は楽しめなかったんだけど、そのドキュメントを見ていてふと思い出したんだ」
「何をだい」
「確かにあの時、自分が映画館ではなく宇宙にいると思えたことをね。宇宙船の中から外の星々が見えて、それが船の旋回とともにさっと流れていくだろ。それを観て”うわぁあああ、飛んでるぅぅ!”と思ったのを思い出したのさ。残念ながら、今『スター・ウォーズ』を仮に映画館の大スクリーンで観たとしても、そんな風には決して思わないだろうね」
「”ふむふむ、この特殊効果は当時としてはよく出来ているね”みたいなことを言い出すのがオチだな。それにしても、いい客だったんだな、その頃の君は」
「だから、そのころ観た映画は名作だとかどうかだとは関係なく、すべて強烈なんだよ。完全に没入しちゃってるから。頭であれこれ理屈つけようと思って観てないからね」
「そうだなあ、学生時分にもインテリを気取って名画座やアートシアター系なんかにもちょろちょろと足を運んだもんだけど、ガキの頃に見た『幻魔大戦』みたいには入り込めはしなかったよな」
「そいつも長じてからもう一回 DVD で観たけど、何か思った以上にしょっぱかった。初めて観た時はあんなに怖かったのに。高校生の時、昔自分が通っていた幼稚園を見に行ったことがあるんだけど、想像以上にこじんまりとしててびっくりした記憶があるよ。あの頃は何もかもが大きく見えたのにさ。その感じにも似ているかな」
「つまり、こういうことだね。”俺たちはいつ映画という楽園を追放されたのか?”」
「そんな詩的なもんかね。『風の谷のナウシカ』までじゃないか。その後は、あまりリアルタイムで封切り作品を観ていないからな」
「部活漬けの中学時代がやってきたんだな。それについてはあまり思い出したくないので、今日はここまでにするとしようか。久し振りにジャームッシュでも観たくなったよ」


2023/11/18
「文句なしの傑作だね」
「また、唐突に来たな。今日は何だい」
「最近、寝る前のお供にセロニアス・モンクの『セロニアス・ヒムセルフ』をよく聴いてるんだけどね。彼のソロ作品は数枚あるんだけど、このアルバムには何か特別なものがあるよ」
「詳しくお伺いしようじゃないの」
「普通、音楽に何を求めるか。アップテンポなビートで気分を高揚させたり、流麗なバラードに涙したり…、とまあ、いろいろ用途はあるんだろうけど、何かしら喜怒哀楽的なものを惹起するものであると思うんだ。それに対してだね、この『ヒムセルフ』は何というか、活性炭みたいなものでさ。聴いていると邪気を吸い取ってくれるような、そんな気分になるんだな」
「ヒーリングミュージック的なものかい?」
「そういうことでもないんだがね。実際に聴いてみれば分かると思うけど、まず、リズミカルではない。ゆったりとしている…というのでもない。一歩進んでは一休みして、また二三歩進んでは立ち止まり…、そんな感じの演奏なんだ。その呼吸感ってのはちょっと他のアルバムでは出会えない」
「ほうほう、不思議なものなんだね」
「他のアルバムではそんな弾き方はしていないんだよ。基本的にリズムが効いてるピアニストなんだ。ストライド奏法の名手でもあるしね。だから、元気を出したい時に聴く作品もちゃんとある。そんな中で、この作品だけどうもどろーんとしているんだね。そこがたまらんのだよ。これにハマってしまうと、どうも他のすべての音楽がお節介に思えてしまうから、困ったもんだ。こちらは眠りたいんだ、余計なことはしてくれるなってね」
「気分の変動が激しかった人のようだから、底にいるときに録音したのかな」
「そうだねえ。例えば、アート・ブレイキーなんかとやった初期のトリオ盤なんてかなり弾けていて、全然雰囲気が違うよ。とても同じ人だとは思えない。やはり、モンクは文句なしの才人だ」
「結局、ダジャレで締めるわけだね。じゃあ、今日はここまで」


2023/10/26
「やっぱり、最強のツールは科学だね」
「どうしたね、藪から棒に」
「久しぶりにアマゾンプライムビデオを観たんだけどさ。一つはイギリスの、もう一つはカナダの古い未解決事件を扱ったもので、どちらも警察の囮捜査が行われていた。それで犯人逮捕となるかと思いきや、その手法による自白が証拠としては採用されずに、容疑者は釈放される」
「なるほど、どちらもすっきりしない結末なんだね」
「同じような構造の話のようだけど、僕の感じ方はだいぶ違う。イギリスの方は真犯人を取り逃がしたなって印象が強いけど、カナダの方はどうも見当違いの人間を逮捕したようにも見える。カナダの場合、潜入捜査のやり方もかなり手が込んでいて、ハリウッド映画かよって感じ。さすがにやりすぎだし、やってる方も容疑者を追い詰めて弄ぶ快感に酔ってる気がするよ。いささか空恐ろしくもなる」
「それがどうして先の発言に繋がるんだい」
「要するに、どちらの事件も物的証拠がないことが問題なんだ。まあ、時代が時代なだけに、仕方がない部分もあっただろうけど、何かそういうものが一つあればこんなややこしいことにならずに済んだのになと思ったわけ」
「君は『CSI:科学捜査班』の大ファンでもあるしな」
「うむ。あれはミステリードラマ史上のマイルストーンだと思うよ。機会があれば、もう一度頭から通して観直してもいいな。それにしても、だ。右を見ても左を見ても、戦争だの、スキャンダルだのという話ばかりで、どうにも気が滅入る。何か楽しい話はないかとアマゾンをクリックしたつもりが、どういうわけかこんなの観ちゃうし。他にも犯罪物のドキュメントが目白押しで、いやはや、目が回るね」
「確かに、そんなのばかりじゃなかなか気が晴れないよな。どうだろう、千葉の幕張あたりに”夢の国”があるとかいう話だから、そんなところならこの世の憂さを忘れられるんじゃないか?」
「何が”夢の国”なもんか。いいかい、そもそもその創業者であるところのウォ…」
「分かった、分かった、その手のものはお気に召さないようだな。変なスイッチが入ると困るから、今日はここまでにしようぜ」


2023/10/23
『影武者』
 その日もプロデューサーから電話が掛かってきた。”御大がまたレコーディングに来ないんだよ、またいつものように頼む”ってね。俺はいそいそとスタジオまで出向くと、毎度そうしてるように、彼そっくりのピアノを弾いてみせた。みんな、スタジオ代が無駄にならずに済んだと言って喜んでいたな。あの頃、そんなのはしょっちゅうあったよ。何しろ、御大の行動は予測不能でね。気分の浮き沈みが激しいのさ。仮にスタジオに現れたとしても、ピアノの前に座ったまま指一本動かしやしない、そんな日もあった。


 俺は、母親のお腹の中にいた時から彼のアルバムを聴き詰めだった。だから、分かるんだ。彼の思考とか、指使いの癖とか、フレーズの組み方とか、全部手に取るようにわかる。ピアノを習い始めた時から、自然と湧き上がってくるんだ。両親はびっくりしていたね。あの唯一無二と言われた彼のピアノを、てんとう虫みたいにコロコロした小僧がいとも簡単に再現して見せるんだからね。


 でも、あの頃、俺の住んでいた街ではピアノよりも銃の方が重要だった。俺もタフな連中の間をサバイブしていかなきゃならなかったから、ピアノのことなんかすっかり忘れて、あっちこっちで喧嘩ばかりしていたよ。ムショに行ったヤツ、隣町のギャングに撃たれて死んだヤツ、いろいろいたな。さすがに嫌気が差して、都会に出て皿洗いなんかしながらどうにか食いつないでいた時に、悪趣味なブレスレットをじゃらじゃら鳴らして、大声であちこちに電話しまくってる迷惑な客に出会った。それが、件のプロデューサーってわけさ。その店には一台の古いピアノが置いてあったけど、誰も触る人間はいなかった。俺も自分が昔習っていたことすら忘れていた。たまたま休み時間か何かに仲間がふざけていい加減なフレーズを弾いたんだ。酔っ払ったビリー・ジョエルみたいなやつをね。それで、お前もなんかやってみろよと言われて、鍵盤に指を置いてみたら、もう止まらなかった。指が勝手に跳ね回るんだよ。ざわついてた店内が次第に静まり返って、誰もがフォークを動かす手を止めて、傷だらけのピアノに向かって何かを吐き出そうとし続ける俺を目を真ん丸にして見つめ続けていたって話だよ。


 そんな即興のステージが万雷の拍手で終演すると、例の男が俺に名刺を渡してきてこう言った。”面白いね、君。俺はちょっとばかし業界に顔が利くんだ。君によく似た男を知っている。一度会ってみないか?”ってね。それからの付き合いってわけさ。御大にも気に入られてね。この店にあるレコードは彼の生前のコレクションでね。遺族が僕に贈ってくれたのさ。気難しいという評判だったけど、俺にはそんなことはなかったよ。


 ファンの夢を壊すようで申し訳ないけど、晩年の作品、例えば、このアルバムのこれとこれ、あと、こっちのアルバムの半分くらいは俺が弾いたものなんだ。なかなかうまくやってるだろ? 当時、気づいた人はいなかったと思うよ。評論家の先生が御大を差し置いて俺の演奏をべた褒めしている記事を見た時には、さすがの彼も苦笑いしていたっけ。”近年、彼の演奏スタイルは若返っているようにも感じられる”だってさ。


 当時の連中も大体が天国に行っちまったけど、それにしても俺のことを嗅ぎ付けたのは君が初めてだ。ほう、君の母親も胎教代わりにこのアルバムをしこたま聴いていたのかい。それで、どうしたって演者が二人いるはずだってことが分かったってんだな。なるほど、人間ってのは不思議な生き物じゃないか。じゃあ、もう少し昔話をしてあげよう。コーヒーをもう一杯、どうかね。これは、店主の私の奢りだ。


2023/10/04
『解剖』
あの晩、私をしたたかにぶった後で、あなたが言ったのよ、「今日は腹の虫の居所が悪い」って。それなのに、お腹の中をどれだけ探しても虫一匹見つからないじゃない。あの後、後片付けが大変だったんだから。


2023/09/25
『家系図殺人事件』
「君はこの家系図を見て何とも思わなかったのかい」
「そりゃ、まあ、ずいぶん由緒正しい家柄なんだなと思ったよ。こんな何代も辿れる一族なんてそうはないだろう」
「それだけなら特に珍しくもないさ。僕の母方の実家にもこのくらいのものがある。そうではなくて、ここに表れているあるパターンに気づかなかったのかい」
「パターン? うむ、父がいて母がいて、その下に兄弟姉妹がいて…」
「そりゃ、処女懐胎でもしなければどこもそうなるだろう。そんなことじゃなくて、ほら、よく見てごらん、こことここと…」
「ほう、次男はどの代でも必ず誰も娶らずに子孫を残していないんだね。確かに不思議と言えば、不思議だな」
「まだ詳しく調べてはいないんだが、僕には彼らが天寿を全うしたとは思えない。少なくとも明治からこちら、二十歳まで生きた人物はいないよ」
「うむむ、遺伝性の病気だろうか?」
「まさか。遺伝子が自分の宿主の番号を記憶しているとは思えないね。つまり、これは作為的ということさ」
「作為的?」
「君好みの言い方をすれば、これは時空を超えた連続殺人ということだよ」
(続きはご想像に任せします)


2023/09/20
『葬式』
 彼がどんな宗教を信じていたのかは知らない。参列した人々は、しきたりによって乾燥した赤い果実を二つに割って祭壇に添えた。民族衣装を着た未亡人は、僕に体をそっと寄せてくると耳元でこう言った。「人の死は感情を大きく乱すことがあります。けれども、あなたは惑わされないでください」。仄かに漂う乳香の香りが鼻の奥に残った。誰かが死ぬと人々は哲学的になったり、過剰に清廉であろうとするものだ。それでも人である限りは現実に留まりなさい、肉欲ですら愛でなさい、それに溺れさえしなければ間違えることはないのです、そんなことを彼女は僕に伝えたかったのではないかと思った。


2023/08/27
「ちょいとこちらを見てくれるかい。「Youtube - マリン・スノー−石油の起源− 東京シネマ製作」という動画なんだが」
「どれどれ。むむむ、何だか、随分物々しい雰囲気だな。これって科学啓蒙目的の作品なんだよね」
「だろうね。しかし、時代もあるのか、東映特撮映画みたいな BGM とフォントなのが妙におかしいと思ってね」
「そう言われてみると、丸善石油のロゴマークも科学特捜隊っぽく見えてくるな」
「確かにな。拡大されて映し出された海の微生物にこの不吉な音楽が加わると、こいつはもう完全にエイリアンかマタンゴの世界だぜ」
「う〜ん、例えばこれを小学生くらいの時に理科の教材として、体育館にでも集められて、でっかいスクリーンで真っ暗な中、見せられたりした日にゃ、若干トラウマにでもなりそうな勢いだよ」
「そうだなあ。これを観て、将来石油を研究しようとか、生物学を志そうとか、そんな風にはあまりならなさそうだ」
「製作段階で言われなかったのかな、”スミマセン、もう少し明るい感じでお願いできませんか?”とか。音楽だけでも、久石譲とか、山下達郎に差し替えたら、だいぶ印象も違う気がするけどね。まあ、そんなのは無理やりな話だけど」
「もしかして、来るべき公害の時代とか、この後に来るオイルショックとか、そういう暗い雰囲気を先取りしたりとかしてるのかもね。ところで、アップロード先には他にもサイエンスや人文科学などに関する希少な映像がたくさん上がってるので、興味がある人は行ってみると時間を忘れるかもしれないぜ。じゃあ、今日はここまで」


2023/08/15
『タイムマシン殺人事件』
「平和主義の君が銃を持っていたとはちょっと意外だったね。確かにこの街は物騒だし、探偵稼業ともなれば、時には危険な目にも遭うだろう」
「いやいや、そういうわけじゃない。この銃は、将来タイムマシンが発明された時に、過去の自分を撃ち殺しに行くためのものさ」
「タイムマシン? ハハハ、君がSF好きだとは知らなかったよ。しかも、自分を撃ちに行くだって? まったく、何をやらかしたんだか」
「それについてはお答えしかねるね。まあ、とにかく、仮にそうなったら、僕なら間違いなくそうするだろうと思うわけさ。つまり、逆に言えば、若かりし俺は狙われる側ということだね。だから、俺はいつ訪れるかもしれぬ自分の襲来に備えて、子供の頃から防弾チョッキを着て毎晩寝ていたよ」
「何だい、そりゃ。死にたいんだが、生きたいんだか。というか、昔から変わっていたんだな、君は」
「君はそんな風に考えたことはないのかい。捻じ曲がった時間の環を通って、過去からの呼び声が届くかもしれないという慄きに震えることは」
「幸いなことにね。そうだな、タイムマシンとやらがあれば、僕なら真っ先に恐竜か遥か未来の世界を見に行くよ」
「なるほど…。それは確かに面白そうだ」
「ようやく気が付いたのかい。難儀な男だね」
 その時、来訪者を告げるブザーが鳴った。
「おや、お客さんのようだ。特に予約は入っていないんだが、飛込みかな」
「珍しいこともあるもんだ。上客だといいがね」
「僕としては、飛び切り奇妙な案件だと嬉しいね」
「そうやってお金にならない仕事ばかり引き受けるから…。ここの家賃だってどれだけ…」
「お説教は後で聞くよ、まずは通してくれたまえ」
 その男は、見る限りどこと言って特徴のない男だった。ありふれた背広を着て、ありふれた時計をはめ、だいたい平均的な場所に目と鼻と口があった。その退屈な表情とは裏腹の言葉が彼の口から飛び出してこようとは、その時の私たちには知る由もなかったのである。
「ようこそ、当事務所へ。まずはご用件をお伺い致しましょう」
「ご用件と言いましょうか…。実はあなた様に関する依頼がありまして…」
 そう言うと、男は背広の内ポケットから一枚の紙を取り出して、我々の前に広げた。
「この書面にありますように、御年百二十歳を迎えた未来のあなたから、過去のご自身に対する…つまり今ここにいらっしゃるあなたのことですが、殺害依頼が出ているのです。この令状は法令に則り、三日間の猶予の後に実効力を持つことになり…」
 それを聞いた刹那、私は文字通り椅子から飛び上がったのである。
(続きはご想像にお任せします)


2023/07/10
「先日の iPod touch の話の続きなんだけどね」
「ふむふむ」
「内部ストレージがパンパンで OS のアップデートもままならないということだったんだけどさ。よくよく計算してみると、放り込んでるファイルと OS で使用してる分を合算しても 32GB になんてとてもならない。そこで iOS の「設定」からストレージの内容を見てみるとだね、「システムデータ」ってのがやたらめったらと容量を占めているということが分かった。だいたい 10GB もあるんだよ」
「そいつは随分だな。内訳は分からないのかい」
「うん、そこまで詳細は見れないんだ。で、いろいろウェブ検索してみたんだが、大体出ているのは”再起動”と”アプリのキャッシュを削除”って話なんだね。どちらもやってみたが、まったく状況は変わらず。それ以外にも OS 上のバグで不要ファイルが溜まっていくことがあるらしいということなんだが、どうやら今回の件はそれじゃないかと思ってね」
「なるほど、そうすると次なる一手は?」
「バックアップを取って出荷前の状態に戻すというやつだな。そこまで多岐に渡る使い方はしてないので、思い出の写真が詰まっているとかいうわけでもない。音楽ファイルはまた入れ直せばいいやということで、思い切ってリセットしてみた」
「なるほど、新たなるスタートだね」
「ようやく、憎き”システムデータ”は一掃された。使わないプリインストールアプリも復活したんで、こいつもどんどん削除。これで以前の環境を復元…と言いたいところだったんだけど、一つだけ困ったことがある」
「一体何かね」
「ずっと使い倒しているファイルマネージャー系のソフトがあったんだけどさ。これが最近のアップデートで UI も一新、個人的にも使いにくい代物に成り果てていたんだ。アンドロイド版もあるんだけど、こちらは自動更新にしていたんで、先にアンドロイドスマホ上で使ってみて、こいつは問題だぞと気づいた。そんなわけで、 iPod touch では更新せずにずっと旧バージョンを使い続けていたんだ」
「フリーウェア界隈ではよくある話だな。作者は張り切っていろいろ刷新するも、どうも微妙ってのは。しかし、 iOS ではそう簡単に旧バージョンを入れなおすってことはできないだろ。ウィンドウズなんかだと篤志がどっかに旧版をアーカイブしてくれてたりするけど」
「サードパーティーのバックアップソフトなんかを使えば古いアプリも丸ごとバックアップできるような記事も見たんだけど、それも面倒臭くてね。で、結局その新バージョンをインストールしたんだけど、やっぱりいろいろ困る点がある。製作者に改善の要望を出してもいいんだが、採択されるとも限らない。ところが、旧版の有料版ってのがあってね。こいつは昔のままのインターフェイスと操作性が保持されてるようなんだ。だから、この際課金してもいいかなと思ってるよ」
「iPod touch 購入直後からずっとお世話になってるもんな。数百円程度のお布施なら安いもんじゃないか。一か月ほど缶コーヒーでも我慢すればいいだろ」
「まあね、それでフリー版にあったアップデートを促すメッセージも出なくなるし、機能制限もなくなる。もっと早くそうしても良かったくらいのもんだ」
「ストレージ問題が解決したってことは、次の買い直しで容量アップをしなくてもよくなったのかね」
「そうなるね。第六世代の 64GB モデルを狙っていたけど、この調子なら今と同じ第七世代の 32GB で十分だ。ついでというわけでもないけど、カバーもヘタってきてたんで買い直した。その際に、久しぶりに素の iPod touch に触ったけど、いやあ、こんなにもコンパクトで薄いんだなって改めて思ったよ。もう、お前以外には考えられない、アンドロイドだのなんだのに浮気心を起こしたりして悪かった、お前が世界最高にして唯一無二の音楽再生専用デバイスだ、と」
「それだけ見事にひっくり返らせたら、手のひらのヤツも本望だろうよ。そういえば、最近思ったことだけど、確かにアップル製品は高額だ、しかし、それは単にブランドという名の幻想への妄信ってわけじゃなくて、その値段には未来の技術に投資する分も含まれているんじゃないかってね。安手の中華スマホは財布にはありがたいけど、彼らが何か全く未知の体験をもたらしてくれるという感じではないから」
「そこがアップルのアップルたる所以だな。単に部品を集めて、組み立てて売り捌いてるだけではない。俺だって、懐に余裕があれば iPad とか iPhoneSE に手を伸ばして可能性はあったんだが。まあ、そこは少し冷静に自分の立ち位置を考えたわけさ」
「比較的手の届きやすい iOS デバイスという意味でも iPod touch の存在はユニークだったんだよな。惜しまれつつもその歴史に幕を閉じたわけだが、将来 iPod touch Resurrection とか iPod touch Returns が発表されることを夢見ながら、今日は締めるとしようぜ」


2023/06/15
「さて、スピーカーも買った。新しいベースも買った。お次は何をご所望かね」
「俺が初めて iPod touch を買ったのが、二〇一五年のことだ。それを六年ほど使って、最後は完全にバッテリーがお釈迦になった。まあ、だいぶ長持ちさせたのではないかと思っている。それから、二代目として二〇二一年の七月に第七世代を中古で買った。外観はかなり奇麗だったので、四年くらいは使えないかなと思っていたんだけど、これが現在、バッテリーの減りが目に見えて速くなっている」
「ありゃりゃ。前の持ち主もそれなりに使い込んでたのかもね。君と違って扱いが丁寧だったから、見た目は奇麗なままだったんだろう」
「その言い方は気になるが、まあ、反論出来ないのが悔しいところだな。とは言え、アプリはギリギリまで削ってるし、ネットの動画は見ないし、重たいゲームもしない。音楽に特化させた使い方をしてたので、それなりに持ってくれると踏んでたんだが…」
「まだ二年経ってない状態で、このへたり方は予想外だったわけだ。その上、もう iPod touch の新しいモデルは発売されないことが決まっている。さて、そんな四面楚歌の状況で君が選択する次の一手は?」
「うむ、大枠で次の四つだ。まず、また別の中古 iPod touch に乗り換えるという選択。フリマサイトなんかを見ていると、バッテリーを新品に交換して出品しているケースが結構あるんだ。結局、今回もバッテリーだけが問題なんだよね。それ以外はピンピンしているわけ。そこでもう一つの選択として、今使ってるヤツのバッテリー交換をするという手もある。ただし、それなりに高額料金なので、買い替えとの差額をどう見るかという問題になってくる。それに修理中は使えないし、その前に初期化しておかなきゃいけないとかいうのも面倒くさい。それから、実はもうストレージがパンパンなんで、もっと容量の大きいモデルに乗り換えたいという思いもある」
「容量がキツキツすぎて OS のヴァージョンアップすら出来なかったもんな」
「第七世代だと上位モデルは 128 ギガと 256 ギガになるんだけどさ。こいつはそもそも高い上に、中古市場ではプレミア化もしているんで、ちょっと手が出しづらい。そこで目を付けているのが、第六世代の 64 ギガモデルなんだ」
「まあ、音楽聴くだけなら、第五世代でも十分といえば十分だったからな。さすがにそこまで戻っちゃうと OS 古すぎていろいろ問題が起こるだろうけど」
「で、もう一つの選択肢がアンドロイドベースのプレイヤーに乗り換えるというものだ。 iPod touch 終了アナウンスの直後には目ぼしいものはほとんど見当たらなかったんだけど、最近この空白を狙ってか、中華製の製品がちらほらと出てきているんだ。まあ、通話機能のないスマホみたいなもんだよね。ただ、あまりに低価格、低スペックなものにしてしまうと、それに起因するストレスがいろいろあるかもしれない。もう少し様子を見たいところ。このジャンルがもっと賑わえば、より洗練された商品が登場してくる可能性もあるしね」
「音楽リスニングもスマホでやればいいじゃんって話にもなるけど、何か違うんだよな。 iPod touch のサイズ感はとっても重要なんだよね。あのコンパクトさに音楽関連を一任させていることの座りの良さ。スマホだとなんか仰々しくなってしまうんだなあ」
「で、最後の選択肢なんだけど、これがもう一つの王道、ソニーのネットワーク対応式ウォークマンへの乗り換えだ。まあ、これもアンドロイドベースといえばアンドロイドベースなんだけど」
「そこは天下のソニー様。音質面ではだいぶ期待ができるね。問題があるとすれば、お値段と、ちょっと厚ぼったいデザインかな」
「ウォークマンなんて可愛い方でさ。ハイレゾ対応とか、そういうハイエンド DAP に目を向けると、ン十万円っていうブツもゴロゴロあるのが、この界隈らしい。やはり、オーディオ沼は恐ろしいね」
「その手の高額製品はバッテリー交換が簡単に可能なのかな? 二年毎に丸ごと買い替えなきゃいけないとかだったら、アラブの石油王でもなけりゃ扱えないじゃないか。 iPod touch も自力でバッテリー交換出来なくもないようなんだけど、そこまでやるのもなあ」
「もし、第六世代を手に入れた場合、手元に三世代の iPod touch があることになる。壊れたノートパソコン、乗り換えられたスマホなど、デジタルで物から解放されるその背後で、ガジェットのジャンクに段々空間を浸食されているような気がする。『鉄腕アトム』にはそんな未来は描かれてなかったなあ」
「セワシ君の家には、 OS ヴァージョンアップで対応機種から外された旧型のドラえもんが屋根裏部屋にゴロゴロ転がってたりするのかもね。じゃあ、今日はここまで」


2023/05/23
「今回はお買い物の話なんだけどね。実にン十年ぶりに新しいベースを買ったわけだ。ジャズべタイプのメイプル指板、ボディーカラーは鮮やかなレッド。先住民のギターもメタリックレッドなんで、兄弟みたいなもんだ。まあ、弟のほうがデカいんで、中川家状態とでもいうか」
「ほうほう、随分といろいろ探し回ってネットに齧り付いてたものな。結局はエントリーのコピーモデルを新品で買ったわけか」
「そうだね、最初に狙ってヤツが品切れになっちゃってさ。値段的にはフリマサイトやヤフオクにもっと安いのはあったけど、買ってからここが変だとか、細かい汚れが気になるとかなるのも面倒くさかったんで、販売店のオンラインショップから買うことにしたよ。それに、どうしてもメイプルが欲しくてさ。そんなこんなで条件を絞った結果、今回の選択と相成った」
「で、どんな具合よ」
「うむ、やっぱ、まっさらなのは気持ちがいいね。弦も新しいのか、まだ金属の擦れる音が目立つけど、この辺もいずれ落ち着くかな。若干弦高も低めで出荷されてるかもしれない。ややビビる。十二フレットの音程も少し怪しいかも。まあ、この辺りもこなれ待ちかもしれない」
「まあ、お値段がお値段ではあるわな。贅沢を言ってはいかんよ」
「それから、これは覚悟していたけど、やっぱ重たいわな。ヘッドも垂れがち。そもそもショートスケールのモデルと迷ってたんだけど、そっちでも良かったかなって気がしてる。次に買うなら、コンパクトサイズにしようとか思ったね。ま、次があるかは分からんけど。置く場所もないし」
「高校生の頃とかさ、まだ自前のギター持ってなかった時は、そんなに何本もギター要らないだろとか思ってけど、結局、多い時にはセミアコとか、エレアコとか、ベースとか、ピックアップ違いとかでぞろぞろ揃ってた時期があったよな」
「パソコンなんかもな。壊れたヤツとかも含めれば、現状八台のノートパソコンが手元にあることになる。中学時代の俺にそんなことを言ってもきっと信じてはもらえないだろう。もっと上位の機種が欲しくてたまらなかったけど、低価格モデルを我慢して使っていたあの頃の俺に。当時八万円くらいだったけど、中坊の俺にとっては十分に高額な代物、夢のマシーンだった。それがだよ、グレードを問わなければ、今なら中古が三台くらい平気で買えるってんだから」
「懐かしいね。『パックマン』をプレイするのに三十分くらいかけてプログラムをカセットからロードしてたよな。フロッピーの登場に目を丸くしていたものだ。それが今やどうだ、今使っているノート PC には、 CD-ROM すら搭載されてない。クラウドやサブスクの普及で、コンテンツに対する感覚も一変した。何でもかんでも手元にないと困るって時代じゃない」
「まあ、昔話はこれくらいにしようぜ。とりあえず、定番のロッククラシックを弾いたりしながら遊んでいるよ。実際に触ってみていろいろ気づくこともある」
「”目指せ、ジャコ・パストリアス!”と言いたいところだけど、あんなブリッジに近いところは弾きにくいな。そもそも体の大きさが違う。ジェフ・ベックを真似ようとした時もそれが障壁になった。その点ではショートスケールの方が相応しかったかもだね。じゃあ、今回はここまで」


2023/03/01
『流氷殺人事件』


I
 「何て素敵な眺めなのかしら! あなたもたまには洒落たことするじゃないの」
 男は鼻を膨らませて言った。
「いつか、言ってただろ。死ぬまでに一度はこの目で流氷が見てみたいって。全く便利な世の中になったもんだ、検索サイトで探してみたら、一発で出てきたよ。”小型ボートで行く氷河への旅”ってね。費用を貯めるのに少し時間が掛かったけどさ。知ってるだろ、うちの会社の安月給は」
「道理で、最近渋ちんだと思ったわ。他所に女でも出来たかと思ってヤキモキしたんだから」
「ははは、済まない、済まない。どうしても、バースデイのサプライズにしたくてね。それしても、その甲斐はあった。この冷たく光る青い輝きは他に例えようもない。ところで、ガイドさん、ちょっと船を止めてくれるかな」
 物静かな船乗りらしい男はゆっくりうなずいてエンジンを切った。
「あら、どうしたの。もう少し先まで行きたいわ」
 男はズボンの後ろポケットをもぞもぞと探りながら言った。
「いや、その、つまり、あれだ…。今日、君とここに来た本当の理由というのはだね…」
 女は船べりからきょとんとした顔で振り向き、仔細を知っていると思われる船乗りはそっと下を向いた。
「つ、つ、つまり、俺たち、もう何年も付き合っているわけだし…」
 しかし、男の手が指環のケースをつかんだその時、女の目にある物が飛び込んできたため、彼の一世一代の作戦は、その後に続いたこの世が終わるがごとき半狂乱の絶叫によって、木っ端微塵に吹き飛ばされてしまったのである。


II
 「どれどれ、新聞の記事によるとこうだ。流氷観光を楽しんでいたカップルとガイドが、流氷と一緒に漂っていた巨大な氷塊に閉じ込められた男の死体を発見した…。衣服は着用しておらず、おそらく人工的に生成された氷の中に直立の姿勢で収められており、ノルウェーの地元警察によると、男はどこかで殺害された後に氷中に封入され、海に流されたものと思われる…。どうだい、君、随分風変わりな事件じゃないか」
「なるほど、確かに興味深い。北欧はミステリー小説の隠れた宝庫だと言われているそうだが、正に現実の方が追い付いてきたという趣じゃないか」
「まったくだ、こんな事件はお話の中だけにしてほしいもんだよ。まあ、この記事だけでどうなるものでもないだろうが、君はどう考えるね」
「どうもこうもないさ、現場には行けそうもないし、これだけの短い特電だけではどうにも。残念ながら、あちらに友人もいないし、僕らのところに依頼が来ることもないだろうよ」
 彼はそう言うとソファに深々と腰を下ろし、大きく足を組み上げた。
「それもそうだな。諦めて、逃げた猫探しでもするかい。最近じゃ、こっちの方が儲かってるじゃないか。もっとも、蜘蛛の巣だらけになるのは毎回僕の方なんで、割に合わん気もするが…」
 その時、私の携帯が鳴った。
「何だ、この番号。見たことないな」
「どれどれ。おや、これは奇遇じゃないか」
「何がだい。これって出た方がいいのかな。新手の詐欺の類じゃないのか」
「これはね、君…。ノルウェイからの国際電話だよ」
 私は目を真ん丸にして彼の顔を覗き込んだが、慌てて着信を許可すると取り乱しながら電話に出た。
「ハロー、ハロー、こ、こちらは外處探偵事務所、ほ、本日は晴天なり、トラ!トラ!トラ! えっと、えっと、す、すみません、で、できれば日本語でお願いします!」
 私の想像に反して、向こうから聞こえてきたのは流暢な日本語であった。
「ご心配かけて申し訳ありません、わたくし、オスロ警察のヤンセンと申すものですが…。**署の**警部からの紹介で、風変わりな犯罪に非常に造詣の深い方がいらっしゃるとお聞きしたものですから…」
 こうして、その二日後、我々はノルウェーはオスロへと向かう機上の人となったのである。初めての海外に私の心は弾んでいた。稀代の名探偵にして学生時代からの刎頸の友である彼と二人でこの奇妙な事件に立ち向かうことになるスリルに興奮していたということもさることながら(とは言え、私の場合は概ね自分自身のヘマによってそれを招いているわけだが)、私の心がそれ以上に躍っていたのは、**警部からの話によって、我々に連絡をくれたヤンセンが妙齢の独身女性であるという事実を聞き及んでいたためである。
(続きはご想像にお任せします)


2022/12/01
『四重奏殺人事件』
「ブラヴォー! ブラヴォー!」
 男の拍手が小さなホールに鳴り響くと、矢継ぎ早に感極まった声が。
「…何て素晴らしい演奏なんだ。ハーモニーがこの空間全体を震わせていましたよ! こんな曲が今まで一度も演奏されずにいたなんて、実に嘆かわしいことだ」
 舞台の上では燕尾服の四人の男女がバツが悪そうにお互いの顔を見回していたが、その表情には深い満足の色があった。最初に口を開いたのは、年長と思われる顎ひげを蓄えた男である。
「…実に不思議なものでしたな。あれから二十年もの間一度も会わずにいた我々が、こうしてこの場所で再び見え、あの日演奏することの適わなかった四重奏をこのような形で執り行うことになるとは…」
「私もとてもそんな時間が経ったとは思えませんでしたわ。あの頃と同じように皆さんお達者で…。長いこと音楽教師をしてきましたけど、教師勤めではとてもこんなアンサンブルは望めませんもの」
「同感だね。私もあちこちのオーケストラを渡り歩いたもんだが、このグループ以上のものには巡り合えなかった。あのまま活動を続けられていれば、今デカい顔をしている下手糞どもがのさばることもなかったろう」
「ははは、田沢さんは相変わらずお口が悪いようで、安心しましたよ」
 その一言で、四人の顔からようやく笑みがこぼれた。
「…それにしても、探偵さん。これはいったいどういう了見ですかな。長い間封印してきた楽譜をもう一度演奏することが、どうして事件の解決に繋がるというのです」
(中略)
「しかし、それだけの甲斐はありましたよ。これではっきりとしました。二十年前、綾乃さんを殺めた人物の名が僕にははっきりと分かりました。そうだ、そうだったんだ…。それは、この楽譜の中に最初から書かれていたんです。中盤で高められていく不穏な空気、そしてそれが妙なる響きの中に雲散霧消していくというアレンジの中に、彼はその名を忍ばせていたのでした。そして、それがこのホールで演奏される時、それは誰の目にも、いや、耳にも明らかになるようになっていたのです。何という才能だろう! 彼には分っていた。もし、犯人がそのフレーズを弾こうとすれば、無意識のうちに間違えるであろうと…」
「…間違える? 私には先ほどの演奏は完璧以外の何物でもなかったと思われますが…」
「そうですわ。あなたがあまりに熱心に仰るものですから、この日のために寸暇を惜しんで練習してきました。私にだって意地がありますもの」
「まったくその通りだね。実にあの先生らしい厄介な譜面だ。彼が参照しているのはバッハではなく、株価のチャートだと当時は揶揄されたもんさ。しかし、この曲には見かけの複雑さとは裏腹の、何というか、温かみがある。先生も人の子だったんだと思わせるね」
「いやはや、皆さん、私が思った通りの素晴らしいプロ意識をお持ちだ。私も初めてこの楽譜を観た時には驚きましたよ。まるで知恵の輪を解くような演奏者泣かせの跳躍的なフレーズの数々。私も最初の内は作者の意図が読めずにいました…。しかし、あれこれと眺めまわしているうちに次第にその隠されたメッセージが分かるようになってきたのです。そこで私は私を個人的に支援してくださっている後援者に連絡し、当時と全く同じコンサートホールを再現していただけるようにお願いしました。それが事件解決のための最重要ポイントであったからです。氏は快諾してくれましたよ、何しろこの手の話が大好きなものですから」
「いや、それにしても全く瓜二つだ。それをこんな都心のど真ん中に、たった二週間で作り上げるとは、その方はいったいどんな…」
「残念ながら、それは申し上げられません。素性を明らかにしないことも支援の条件の一つなものですからね。さて、こうして”幻のコンサート”を今宵開催することができたわけですが、惜しむらくは観客が私一人だということです。そして、さらに惜しむべきは、もう二度とこのメンバーがこうして揃うことはないだろうということです。事件はすでに時効を迎えはしましたが、この犯行を行った人物であれば、彼なりのプライドがあることでしょう。もし、その企みが暴かれた暁には、自ら決着をつけるはずだと私は信じています…」
 四人はお互いの表情をそれとなく探っていたが、やがて彼らの中にも一つの解答が浮かび上がってきたようだった。
「では、皆さん、思い出してみてください、第一楽章が開け、あの奇妙なモチーフが繰り返されるところを…。たくさんの定石外れを強いられ、演奏者にはストレスが掛かるところです。皆さんの中には早く次の第二楽章、あの軽やかで道化たフレーズに辿り着きたいという思いが高まっていったことでしょう…。もう、お分かりのことかと思いますが、ここに既に一つの陥穽があったのです。巧みな誘導、いや、ミステリー的にはミスディレクションというべきでしょうか。もし、犯人に罪の意識があったなら、彼はこの緊張からきっと目を逸らすに違いない。そして、それは次の楽章の演奏指示の読解に必ずや影響を与えるであろう…。さあ、思い出してください、皆さんのうち三人は、この楽章に入った瞬間に小さな違和感を覚えたはずなのです。そうです、一人だけ記譜に対して違う解釈を与えていたからです。それが図らずも”罪の告白”になっているとも知らずに」
「ちょっと待ってください…。確かにあなたの言う通りだ。今思い返せば、あそこに入った時に何かが変だと思ったんだ。そこまで完璧に調和していたものが一瞬だけ引っ掛かったんだ。でも、あまりに些細なことだったし、演奏中にはよくあることだったから、気にも留めずにいたんだが…」
「そうです。犯人を除くお三方は完全に演奏に没頭し、同期していたのです。そして、この中のお一人だけが、それを乱していること、そして、それが作者の意図であること、さらにはそれ自体が彼、もしくは彼女に対するメッセージであることに気が付いたのです。ここまでくれば、もうお分かりですね。二十年前、あのステンドグラスの下に綾乃さんの死体を横たえた忌まわしき犯人の名前、それは…」
 その瞬間、一つの影が脱兎として駆け出し、彼の体を突き飛ばして
(続きはご想像にお任せします)


2022/10/05
 「私を殺したのは、正に風そのものでしてね…」と、その男は言った。三途の川を渡る前の船着き場では、誰からともなく身の上話をし始めるものだ。
「となると、あれですかい。台風か何かで飛んできた屋根にでも潰されましたか」
 誰かが問い掛けた。男の答を待って一瞬その場がしんとなった。
「いえ、そうではありません」
 男は決まり悪そうにそう言った。
「…何しろ、いささか突拍子もない話なもので」
「まあ、いいじゃないですか、次の船までまだ時間がありそうですから、是非聞かせていただけませんかね。私なぞ、話すまでもないようなありふれた病死なものでね」
「そうですか、そう仰っていただけるなら、お言葉に甘えまして…。私もその瞬間まで、風に殺されるとは夢にも思いませんでしたが、よくよく考えますと、その予兆はそれ以前から起こっていたようにも思えるのです。それが具体的な形となったのが、あの日のことで…」
「どうも話が今一つ見えませんな。あなたは事件の被害者なのですね? すみません、私、生前は刑事をやっていたもので」
「そうでしたか、でしたら、話は早い。これはれっきとした殺人なのです。そして、先ほども申しましたように、犯人は風なのです」
「いやはや、どうにも。まさか、風がナイフを引っ掴んであなたを刺したとでもおっしゃるんですか」
「ええ、正にその通りなのです。正確にはナイフではなくアイスピックですが」
「ははん、分かりましたよ。あなたもお人が悪い。”風”というのは、その犯人の仇名か何かですね。いや、今どきならそんな名前の女性がいてもちっともおかしくはない。私の孫にもずいぶん頓狂な名前の者がいますからな」
「いやいや、そうではありません。私が申しあげているのは、まさしく自然現象としての風に他なりません。風が私を刺して逃げ去ったのです。当然、後には何も残りません、私の鮮血に染まった凶器を除いては…」
 話がそこまで及ぶと、にわかにその場もざわつき始めた。
「すると、あなたはこう仰るわけですか、風がアイスピックを手にあなたを襲撃し、それからまさに風のように逃げた…と」
「ええ、そうです。今頃、下界では大騒ぎになっているかもしれません。前代未聞の完全犯罪遂に現る…などと言ってね」
 私もいくらか身を乗り出しかけたところ、今まで後ろの方にいたのであろう一人の青年が、人波をかき分けかき分けし、話に割り込んできた。
「…すみません、すみません、ちょっと通してください、あの、私、ちょっとした事情で今ここにいるんですけど、もう少ししたら戻る予定なんで、その前に詳しい話をお聞かせ願えませんか」
 聞き捨てならないセリフだ。私はすかさず威厳を正して言った。
「君、今何と言ったかね。”もう少ししたら戻る”だと? ここをどこと心得る。君はもうすぐこの川を渡って成仏するのだよ。自らの死を受け入れがたいのは分かるが…」
「いえ、先ほども言いました通り、いろいろと複雑な事情がありまして。詳細は省かせていただきますが、私はもうすぐ戻ることになってます。ですから、今のうちにこの方の話を聞いておかないと、事件の解決が難しくなると思いまして…」
 この男、よほど頭が混乱していると見える。私は手にした杖で地面をコツと短く突き、ざわつく死人たちをいったん諫めた。
「青年よ、よく聞きなさい、若くして命を絶たれたことに悔しい思いもあろう。残してきた人たちもあろう。未だ成し遂げざる志もあろう。しかし、死は誰にとっても圧倒的に平等なものだ。時間は掛かるかもしれないが、君もいつかそれを受け入れ…」
「そんな御託は結構ですよ。もう、上の方と話はついていますので。そもそも私がここに来たのも、恐るべき奸智に長けた憎むべき殺人鬼を欺くためなのです。何しろ、死んだ振りくらいでは手ぬるすぎる相手でしてね。ですから、今回こうして実際に死んでみたわけです。いやはや、体を張った捜査ってのは正直私の趣味ではないのですが、背に腹は代えられません。それに来てみたら来てみたでなかなか興味深いところです。正に冥途の土産になりましたよ。そんなわけで、そちらの事件はもう方が付いているでしょうから、つい今しがたこの方が話された興味深い事件についてお聞きしたいのです」
「道理でどこかで見たことがあると思ったのだが、君はもしかして…」
 元刑事の男が言った。
「ははは、あなたは元県警の権藤さんですね。よく存じ上げております。”鬼のゴンドウ”として悪党どもを震え上がらせてきたのは今でも署内の語り草になってますよ。そうです、私は**探偵事務所の**です。さて、それではいよいよ本題に移るとしましょう」
 口を挟もうとする私の背中をコツコツと叩くものがあった。誰かと思えば、いつもの小間使い鬼である。
「すみません、野暮用でちょいと遅くなりました。閻魔様からのお達しが届いておりまして…」
「言わずともよい。承知しておる」
「へえ、もうご存じでしたか。それにしても、こんな話は前代未聞でございますな…。一度死んだものを当人の申し出でもう一度下に戻すだなんて」
 苦虫を噛み潰す私をよそに、青年は話の発端となった男に向かって言った。
「では、改めまして…。風による殺人について、詳しくお聞かせ願えますか」
 その瞬間、自分でも驚いたことに、何百年かぶりに己が唾をごくりと飲む音を聞いたのである。
(続きは各自でお願いいたします)


2022/08/28
「いやあ、映画って本当にいいものですね」
「何だよ、藪から棒に」
「久し振りに映画をフルで観たんだよ、アマゾンプライムでさ。『病院坂の首縊りの家』ってやつなんだけど」
「横溝×市川コンビのラストを飾る作品だな。随分前に一度見てなかったか」
「そうだね、二回目になる。そこでだ、いろいろ思ったことがあるんで、つらつらと語らせてもらおうと思ってね」
「どれどれ、聞いたろうやないの」
「残念ながら、本作は『犬神家の一族』や『悪魔の手毬唄』には遠く及ばない。もう時代の潮目が変わっているのに、いろんな事情で同じスタイルを繰り返してしまったんだろうね。それに、俺の頭もポンコツになってるせいか、登場人物のいろんな関係がうまく頭に入ってこなくて、誰にどんな悲劇があって、誰が兄弟で親子で、どこに恨みがあるのか、いまいち把握しきれなかった。まあ、これは横溝作品に限らず、クリスティでも起こることなんだけど」
「”登場人物多すぎ問題”ってのはあるよな。『オリエント急行殺人事件』なんかでも、いろんな証拠と人物との関係がややこしくて、犯人探しにてこずる。まあ、最後にはそんなことはすべてどうでもよくなるわけだけど」
「おやおや、ネタバレは禁止で行こうぜ。それにね、この作品、何だか画面が明るいんだ。多分、フィルムの品質が良くなったのだと思うんだけど、それが却って映像から陰を奪っている」
「確かに廃墟のセット感がちょっと見えちゃってるね。室内のシーンも『犬神家の一族』と全く同じ色遣いとアングルで新味に欠けるな」 「佐久間良子は旧世代的な色香があっていいんだけど、桜田淳子は令和でも通じるモダンさだよ。やはり、時代は”モーレツからビューティフルへ”だったわけでさ。そんな時に「犬神、再び」というのはさすがにちょっと無理があったんじゃないかね」
「大きすぎる成功体験の呪縛というやつかもしれないな。”名物に旨い物なし、映画の続編に傑作なし”というじゃないか」
「多分、それまでのシリーズも観てきた人だったら、お馴染みのメンツがお約束の場面で登場してきたりして、”よ、待ってました!”って感じで楽しめたのではないかな。とは言え、それは映画そのものの出来栄えとは別だしね」
「まあ、そういうファンの心をくすぐる仕掛けってのは嫌いじゃないけどな。ヒッチコックの時代からいろいろあるわけで」
「で、細かい話をするとだね。今回気になったのは、”金田一耕助は一体どこに泊まっているのか?”ということだ。いつもなら、旅館の仲居さんとのコミカルなやり取りが見せ場の一つだったりするんだけど、今回はそういうシーンがなかったんだよね」
「坂口良子との掛け合いなんて最高だったよな。あれがないんじゃ、ちょっと白けちまうね」
「それからだね、今回も過去の因縁から来る復讐話ではあるんだけど、するにしてももうちっとやり方ってものがあるだろって感じで、どうもそちらに感情移入できない。結局、首謀者の思慮不足が招いた不測の事態ってだけじゃないのって。巻き込まれた方も巻き込まれた方で、どうしてそういう行動に出るかなって感じだしさあ。それに加えてだね、さっき述べたフィルムの感度もあってなのか、血がハンコの朱肉をぶちまけたようにしか見えない。吹き出し方も大仰で、頭をギターで殴られたからってあんな風に口からぶわっと出たりはしないよ」
「何だい、文句ばっかりだな。ちったあ、水野晴郎先生を見習えよ」
「つまり、こういうことさ、本作を凡作にした犯人は”時代”だよ」
「やれやれ、随分と大上段に出たもんだ。君には金田一のフケでも煎じて飲んでいただく必要がありそうだな。じゃあ、今日はここまで」


2022/08/16
 「庭いじりが好きなんです」というと、大抵の人は「若いのに変わってるわね」と怪訝そうな顔をする。そう言われる度に、父が植物学者だったとか、薔薇が好きだった母の影響でとか、その時の気分で適当に答えてきた。実際のところ、私はただ土が好きなのだ。湿った地面を小さなショベルで掘り返している時の土の匂い。彼らはただじっとしているだけの静かな物体ではない。その内には大量の微生物やミミズが潜んでおり、その力によって有機物であればほぼ確実に溶かしてしまう。その崇高な包容力に私はずっと魅せられてきた。腐肉が次第にさらさらとした粉末に変貌していくのは、実に神秘的な体験であった。残るのはただ乾いた骨だけである。「最近、野良猫がすっかりいなくなったわね」、近所のおばさま方が辻々でそんな話をしている横を、どれほど得意げな気持ちで通り過ぎていたかを、私以外の誰も知らないのだ。その隠微な高揚感たるや。どこからどう見てもぱっとしない、誰からも顧みられない私にとっては、それがたったひとつの慰めなのであった。


 そんな人知れぬ一人遊びに不意に影が差したのは、職場の同僚が口にしたほんの些細な一言からである。
「知ってるんだからね」
 いつものように退屈な事務仕事に明け暮れていた私の耳元で彼女がそう囁いた時、私は電卓を叩く指を一瞬休めて振り向いた。思いの外、彼女の顔が近かったので、彼女の生温かい肌の湿り気を感じた。
「経理の加藤君が急に会社に来なくなってから、そろそろ三ヶ月になるかしら。入社した頃から、もうちょっと目が泳いでたもんね。学生時代はバックパッカーで世界中あちこち飛び回ってたみたいだから、どうせ五月病にでもなってインドにでも逃げたんだろうってのがもっぱらの噂だけど」
 どうして、分かったのだろう。実行にはあれほど気を付けていたのに。
「吉田さんさあ、なかなか馴染めない彼のこと結構フォローしてあげてたから、偉いなあって思ってたんだよね」
「…私にも身に覚えがあるから」
「あら、ご謙遜ね。知ってる? 最近うちの部署じゃ、みんなが口を揃えて”吉田さんはすっぴんの方が可愛い”ですって。あたしみたいな肉食系はお呼びじゃないんだってさ。まったく、失礼しちゃうわよね」
 そんなことをお道化た口調でひとしきり述べた後、彼女は急に真顔になって言った。
「でもね…。あたし、見たんだ」
「見た? 何をかしら」
「加藤君が、あなたのおうちに入っていくところ。あなたってあんな大きなお屋敷に一人で住んでるのね、びっくりしちゃったわ。初めは、あなたも隅に置けないわねって思っただけなんだけど、それからあんなことになってもんだからさ。そうするといろいろ考えちゃうじゃない? あたしにだって少しは脳味噌ってものがあるのよ」
 彼は最後、妙に嬉しそうな顔をしていたっけ。可哀そうな加藤君。夢を見たまま死んでしまった。しかし、問題はこのお喋りな女だ。女同士ともなれば、甘ったるい誘惑の言葉なども使えはしない。それに時期が近すぎる。そもそも彼女にはこの世から消える理由が見当たらない。この類の人間には世界にひっそりと開いている隙間というものが見えないのだ。さあ、どうやってこの女を埋める? 加えて、もう一つ問題がある。そもそも、彼女は私の家の前で何をしていたというのだ。美しい薔薇には棘がある。私はきっと彼女を見据えた。
(続きは各自でお願いいたします)


2022/08/09
 これから二時間後に母と妹を焼き殺すことになる火の種が、俺の手の中にあった。その日、いつものように悪ガキたちと空き地で飛び回っていたのだが、そのうちの一人が百円ライターをこっそりと持ってきていたのだ。彼の手の中でそれがカチカチと鳴る度に、小さな焔がしゅっと立つのを魔法を見るように皆で眺めていた。


 日が沈んだ後の帰り道、俺は母がカセットコンロに火を点ける時に同じものを使っていたことを思い出した。母はあれをどこにしまっただろう? 懸命に記憶をほじくり返し、食器棚の上の方の引き出しにしまっている母の姿を俺は思い起こしていた。そこからのことは細かくは覚えていない。気が付くと俺は煙にむせかえり、銀色の服を着た大人に抱きかかえられて、救急車に放り込まれた。窓の外で鳴り響くいくつものサイレンを聞きながら、俺は母と妹はどうしているのかと薄れゆく意識の中で考えていた。


 世間的には、我が家を襲った火災もその年の夏に発生した一連の放火事件の一つだと考えられている。あれから二十年の月日が経つが、結局犯人は捕まらずじまいであった。その間、初老の刑事が幾度か俺のところにも訪ねて来た。
「何か思い出すことはありませんか、どんな些細なことでもいいんです」
 彼がそう言う度に心が痛んだ。死者五名、負傷者十三名を出した大事件である。加熱した報道に煽られ、心理学者から一般市民までが様々な犯人像をまくしたてた。あらぬ疑いを掛けられて人生を狂わされた者も少なくないと聞く。俺が言うべきことでもないだろうが、彼の執念には心底頭が下がった。


 父も失踪し、家族も失った俺は、親戚中をたらい回しにされながらも、どうにか住み込みの料理人見習いとして小さな旅館に職を見つけることができた。特段払いが良いわけでもないが、貧乏には慣れていた。倹しく暮らしていれば、時には酒も飲める。そうこうしている内に年上の世話好きな女中と良い仲になり、かりそめの所帯持ちのような格好にもなった。そんな俺の元に一通の不思議な手紙が舞い込んだのは、臨月間近の女房が里に帰っている最中のことである。
(続きは各自でお願いいたします)


2022/08/02
 暗闇の中に水が滴る音だけが響いていた。閉じ込められてからどれだけの時間が経ったのだろう。こんな山奥に人通りのあろうはずもない。後どれだけの酸素が我々に残されているのか。そんなことを考える度に背筋がぶるっと震えた。
「俺が小さい頃、村の翁がこんな話をしてくれたよ。”お前はまだ水の怖さを知らぬ。彼らがどれだけ我々を慈しみ、そして禁を犯した者にはどれだけの戒めを与えるのかを”とね」
「古来から水害が多かった地域だ。きっとそのことを暗喩しているんだろう」
 怯えを気取られぬよう、気丈を装いながら私は答えた。
「俺も最初はそう思ったさ。実際、この十年の間にも何度か大型の台風や豪雨に見舞われて、俺の同級生にも命を落とした者がいる…。でもな、村上。俺は最近分かったんだよ、この言葉の本当の意味が」
「まったく、君らしくない発言だね。遂に純粋ミステリーを捨ててオカルト作家にでも転向する気なのかい。乱歩やカー先生が聞いたらさぞかしお嘆きだろうよ」
「いや、そうではないんだ。むしろ純粋に論理だけを追っていった結果、俺はそこに導かれたのだと言ってよい」
「じゃあ、君は本気で言うのかい。”水が人を殺した”のだと。都司子さんの首を斬り落としたのも、克彦くんをあんな目に遭わせたのも」
「そうだよ。この一連の凄惨な事件を操っていたのは、まさしく水なんだ。この村にだけ湧き出る、あの呪われた…」
(続きは各自でお願いいたします)


2022/07/28
「ちょいと聞きたいんだがね」
「どうしたい、藪から棒に」
「いろいろと海外のミステリードラマなんかを観て来たじゃないのさ。一度観始めると止まらないなんて経験をいくつもしてきた。ところが、こと映画となるとどうしてこうも退屈してしまうのかな」
「そうだなあ、いろいろサブカルは渡り歩いてきたつもりやけど、映画は結局馴染めなかったね」
「今、 GYAO でやってる『殺人の告白』ってのを観てんだけど、どうも入り込めずにいる。これが、作品そのものから来るものなのか、映画という物自体に何かがあるのか、そのあたりがモヤっとしてね」
「韓国のミステリー映画だね。日本でもリメイクされてなかったか」
「筋立ては非常に魅力的ではあるんだけど、それを描くのにそうする必要あるかって感じなんだよな。冒頭のアクションシーンとか、ある人物が人生を儚んで飛び降りるシークエンスとか、映像的にはよく出来てると言えば出来てるけど、その映像を撮りたいがためにある演出って感じがするよ」
「本末転倒ってやつだな。時効を迎えた連続殺人の犯人が手記を出版してメディアスターになる…というストーリーは確かにインパクトがあるけども」
「以前、『殺人の追憶』というのを観た時も、いろいろ引っ掛かるところがあってさ。拷問も上等の古株刑事と、都会から来た進歩的な刑事の対比で話を進めるのかと思ったら、そういう感じでもないんだよ。中程で古株刑事がただ横暴に見えて実は鋭い観察眼を持っていたということを表現するシーンがあるんだけど、だからと言ってそこから彼がそれを活かして云々という感じでもない。どうも一本筋が通ってないんだよ」
「漫才とかでも、ボケの様式が混在しているケースがあるけど、あの違和感にも似てるかね。おバカさんとしてボケてるなら、最後までそれを貫かないといけない。途中で気の利いた系のボケを挟んだりすると、そのボケ自体はパンチがあっても、何か素直に笑えないんだよね。まあ、余計なお世話なんだろうけど」
「整合性よりも手数を重視してしまうんだろうな。映画もさ、いろんな人の思惑が絡んでくるから、あちこちに目配せした結果として、ぐにゃぐにゃしてしまうのかもしれない。スポンサーとか、どこそこのスタジオを使ったらあの特殊技術をお義理で使わないといけないとか、芸能事務所のパワーバランスとか」
「いろいろなタイトルが頭に浮かんでるけど、言わないでおくよ。友部正人じゃないけれど、直近で見た本当に面白かった映画って何だろうね」
「そうだなあ、最近だとスペイン映画の『ハーシュランド』とか、割といい感じだったかな。林海象の『夢みるように眠りたい』を観たのっていつだっけ」
「読書録はつけてるけど、映画はちゃんと記録してないからな。そもそも最後に映画館で観たのが、『ハンニバル』だろ。どんだけ昔だよ。藤岡弘の『野獣狩り』はたまたまケーブルテレビで観たけど、面白かったかな」
「どうにもてんでバラバラだね。それ以前となると、学生時代のゴダールとか、ジャームッシュまで遡らないといけないし、子供時代の映画ってのはまた特殊な没入体験だから、それはそれでいつかちゃんと語りたいとは思うんだけど」
「さっぱりまとまらんし、これというオチもつかないが、そんな日もあるってことで、今日はここまでにしておこうぜ」


2022/07/19
「さあ、さあ、今日は屁理屈全開話だよ」
「屁理屈はいつものことだろ。どんな捏ね方をしてくれるんだい」
「それはこんな具合さ。先日、贔屓にしている Youtube チャンネルの動画を観てたら、こんな発言があった。その方には小さい娘さんがいるのだけど、その子が最近言った”美味しくて、美味しい!”というフレーズがとても可愛くて面白かったと言うんだね」
「ははは、”美味しくて、美味しい”はいいね。因果論完全無視の因因論、または果果論だね。そんな論理を持つ以前の未熟さで同じ言葉を重ねてしまうというのが何とも可愛いじゃないか」
「そうさね、他にも”正しくて、正しい!”とか、”嬉しくて、嬉しい!”とか、ヴァリエーションはありそうだ。で、ふと考えた。果たして、この子は本当に原因と結果をぺっしゃんこにして混同しているだけなのだろうか」
「どういうことだい。例えば、”甘くて、美味しい”なら、理由があって結果があるということになる。結果が原因にぶちゅっと潰されてくっついてるからおかしみがあるんじゃないのかね。カッコつけて言えばトートロジーかな」
「まあ、実際のところは本人に聞かなきゃ分からないけど、こう考えてはどうか。つまり、「”美味しい”という原因があったので、”美味しい”という表現が生まれた」といったような因果律が、この背後にはあるのではないかとね」
「ほうほう。つまり、これを少しばかり知恵のついた状態で書き下すとすれば、『あまりに美味しかったので、思わず「美味しい!」という声が漏れてしまった』とでもなるかな」
「つまり、これは因果の未分化なんかでなく、ちゃんと理由があって結果があるという表現になってるのじゃないかってことさ」
「未分化じゃなくて、ある種の省略の問題なんだな。まあ、言えなくもない気はするが、正解はその子が成長して自分の言葉で語ってくれでもしなければ藪の中だろう」
「まあ、そんなとこかな。ところで、省略というワードが出たので、そのうち「全然+肯定」について思うところをちょっとまとめてみるとしよう。じゃあ、今日はここまで」


2022/06/18
「どうしたい、苦虫を噛み潰したような顔してるじゃないか」
「”意味が分からない”」
「何か不可解なことでもあったかね」
「”意味が分からない”の意味が分からない」
「うむ? 何を言ってるかよく分からないんだが…」
「つまり、この”意味が”の”が”は何を意味してるのかがよく分からんのだよ」
「済まんが、もう少し噛み砕いてくれんかね。それこそ、意味が分からんよ」
「”が”は主語を表すというのが一般的な解釈だろ。しかし、”意味が分かる”の場合、主語は何だろう? ”分かる”のは俺とか、誰かじゃないか。だから、教科書的なルールに則るとだね、”俺は意味を分かる”とするのが正しいように思える。しかし、この文はだいぶ不格好で、ナチュラルな表現とはとても言えない」
「確かにな。”意味が通る”なら、まだ”意味”を主語にしてもいい気はするね」
「もしくは、受動態にして、”意味が分かられる”なら、意味を了解する主体を主語から外せる。しかし、これも日本語としては不自然だ」
「無理矢理主語をくっつけて、”俺は意味が分かる”という言い方は出来なくもないけど、これもちょっと場面を選ぶかな。”彼は何も言わずに俯いた。しかし、俺にはその意味は分かった”みたいな」
「そう考えると、”意味が分からない”の意味が分からないんだよ」
「まあ、でも、普通に使えて、誰でも意味が分かるんだから、それでいいじゃないか。このフレーズ全体が成句のようになっているようにも感じる」
「ああ、このままでは”意味が分からない”を忌み嫌ってしまいそうだ」
「結局、それが言いたかっただけじゃねえの? じゃあ、今日はここまで」


2022/04/22
『ユキヒョウ』
 この白いものは雪。歩けども歩けども、延々と私についてくる。岩と風。何故、私はこんなところに暮らしているのだろう。仲間とは滅多に会うことはない。時折、遠くに二本足の動物を見ることがある。我々と違ってみな違う色の皮膚をしているが、匂いは大体同じだ。不思議なことに、私には彼らの言っていることが分かる。私は彼らを通じていろいろなことを知った。自分が彼らにユキヒョウと呼ばれ、崇められつつも、恐れられているということも。


 このことを仲間にも伝えたいのだが、どうしてだろう、彼らには全く私の思いが伝わらない。縄張りと交尾のことで彼らの頭の中はほぼ満たされている。そのことに何の疑問もなければ、少しの不自由もない。私だけがこうして自問自答を繰り返している。何故、私はこんなところに暮らしているのだろう、と。


 今、私のお腹の中には新しい命がある。この谷の西にいる気弱なオスが父親だ。彼にはなぜ私が自分を伴侶に選んだのかがよく分からなかったようだ。あまり経験がないのだろう、所作はぎこちなかった。ただ、私にはそれが心地よかった。最後にありがとうと伝えて別れたが、きょとんとした顔をしていた。粗暴でこちらの気分を尊重できないようなオスにはうんざりしていた。


 私のこの選択が我々の気質を変えていくのかどうかについては自信がない。この広い原野で私だけが私を私と知っている。何故、そのような魂を持って私は生まれたのか。そして、我が子にもいつの日かそれは宿るのか。無邪気に乳を吸い、私に身を寄せることだけが喜びだった彼らが、次第に肉を食み、岩場を駆け上り、やがて私のもとを去っていくのを何度も眺めて来た。私の期待をよそに、彼らもまたただひたすらにユキヒョウであった。彼らの背中が遠くなるのを、引き止めたい衝動に幾度駆られたことだろう。このまま時間が止まってくれればとどれほど願ったことだろう。この身の引き裂かれるような思いはどこから来るのか。そして、他の仲間たちも同じ思いを持つのだろうか。風に向かって尋ねるが、答えるものもない。


2022/04/13
「最近、久し振りにニルヴァーナの『ブリーチ』を聴いたんだがね。やっぱり、この頃が一番良いんじゃないかな、このバンドは」
「まだサブポップレーベル時代のインディーデビュー盤だね。スタジオで一発録りしましたって感じのラフさがいかにもグランジ的でいいよな」
「多くの人と同じように俺も『ネヴァーマインド』から入った口だけど、確かにスマッシュヒットの「スメルズ・ライク〜」はインパクトあるんだが、どうも空間的解像度が良すぎて、スリーピースバンドだとそもそも音数が足りないというか、分離感がありすぎるというか、そんな感じなんだよな。マライア・キャリーとかならそれでいいんだろうけど」
「それでも、あのダウナーなサウンドと歌詞の世界に世間がびっくらこいたわけだ。そして、一躍スターダムを駆け上がり、時代の寵児になったものの、結局あのような最期を迎えてしまうことになる」
「うむ。俺は病院のベッドでそのニュースを聞いた。ジミやジャニスと同じ二七歳での出来事だった。本人がそれを意識していたかどうかは、もう知ることは出来ない」
「最後のアルバムとなった『イン・ユーテロ』では、グランジの大御所をプロデューサーに迎えて昔ながらの音作りに戻そうとしたけど、ジャケットデザインも含めて全体的に苦しげな雰囲気ではあった。もう、仲間内だけでワイワイやってるだけでいい存在じゃなくなっていたからな。時代のシンボルやアイコンになることを求められた上での創作をしなければならなかった。でも、これはちゃんとそれに応えた作品だったと思うよ」
「”子宮の中”だなんて、よっぽど現実から逃げ出したかったのかね。未発表曲を集めたコンピ盤があるけど、その中でヴァセリンズをカバーしてるのとかあるじゃない。あれ、すごくポップでいいよな。ああいう面も彼にはあったわけだ。少年ナイフが好きとかさ」
「カバーが原曲を超えるのはスーパーバンドの条件っていう定理でもぶち上げてみようか。例えば、ビートルズやツェッペリンがそうだ」
「カートは声もいいし、メロディセンスもあった。それだけでも十分愛される資格があったのに、どうしてそうなっちまったかね。ネガティビティといかに向き合うかという時代の大波に飲まれてしまったのか。まあ、ここで簡単に出せる答ではないけど」
「ここまであれこれ言っといてなんだけどさ、俺はグランジではダイナソーJr.派なんだけどね」
「何だよ、無理にここで言わなくてもいいよ。ダイナソーは最近映画にもなったみたいだぜ。あれだけダルそうな雰囲気のマスシスがギターの弾き過ぎで腱鞘炎になるってのが、妙におかしいよな。”頑張り屋さんだったんかい!”的なね。ああ、過ぎ去りし、九〇年代よ。そういや、その昔『ロッキン・オン』にしょうもない幼稚な駄文を投稿してたのは内緒だぜ。今思い返しても、内容がケチな家のお母さんが作るカルピスみたいに薄かったもんな。じゃあ、今日はここまで」


2022/04/09
「番組名は伏せるが、最近あるドキュメントを観たんだがね」
「ほいきた」
「酔っ払いに絡まれて怪我した鳥を長きに渡って保護してきた男性のお話なんだけどさ」
「ええ人やな。動物好きに悪い人はいないぜよ」
「その鳥にはつがいのオスがいるんだけど、基本的には渡り鳥なのでそのオスは冬の間は越冬地に行ってしまうんだね。そして、時期が来るとまた帰ってくるんだ。それで、その男性が言うには、待っているメスはこの時期オスが恋しくて食欲が落ちてしまうってんで、せっせと釣ってきた魚を食べさせるんだけどさ。これってどうなのかなと思ってね」
「どういうこったい」
「人間でもつわりってものがあったりするじゃない。だから、繁殖期にはいろいろ体内のバランスが変わることもあるだろうから、食べなくなるのはもしかしたら生理的に通常って可能性はないのかなってね」
「なるほど、恋煩いで云々ってのは、その男性のロマンチックな思い込みかもしれないわけか」
「彼も奥さんを亡くしていてね。それで過剰に感情移入してしまっているのかもしれない。まあ、本当のところはよく分からないので、専門家がいれば聞いてみたいところだね。その昔、良かれと思って水を遣りすぎて、ポインセチアを駄目にしてしまったことを思い出してしまったよ」
「我々の常識で他の生物を測ってはいけないということはよくありそうだな。喜ぶだろうと思って犬にチョコレートをあげてしまうとか」
「少し話は広がるけど、ペットとかに人にするように話しかけてる人ってよくいると思うけど、あれもどうなんだろうなって思うね」
「まあな。”うちの子は人の言葉がわかるんです”って得意げに言ったりする人もいるけど、可愛さ余ってってことではあるんだろうけど、基本的には思い込みなんだろうね」
「ある音節とある経験や事物を結びつけるということは出来ると思うんだ、ワンコやニャンコもね。実際、百個くらいのおもちゃの名前を覚えてるワンコってのをテレビで観たことあるよ。ただ、それを人語を解すると言ってしまうのは、少し勇み足だと思うんだよね」
「”名犬ラッシー”や”あらいぐまラスカル”のようには行かないよってか。そう言い切っちゃうのも何か寂しい気がするが」
「人は裸で生まれて、やがて幻想という繭を纏ってその中で生きていく、そんな不思議な生き物だ。僕らが愛しているのは、猫そのものではなく、それを包み込む幻想の方なのさ。じゃあ、今日はここまで」


2022/04/06
「君は『戦え! カッチョマン』を知っているかね」
「カッチョマン? どうにもふざけた名前だな。昭和の特撮はそれなりに知っているつもりだが、そんなのあったっけ?」
「安心したまえ、知らなくても当然さ。何しろ、これは小学生の時に僕が考えたヒーローなんだからね」
「何だい、そりゃ。知るわけないだろ、そんなもの」
「今日は少しその話を掘ってみようと思うんだがね。で、この謎のヒーロー「カッチョマン」。さっきは”僕が考えた”と言ったけれど、これは正確ではない」
「どういうことだい」
「その昔、テレビマガジンとかテレビランド、もしくは「小学〜年生」だったかもしれないけど、そんな子供向けの月刊誌があってさ。たまに親に買ってもらったりしてたわけだけど、その付録にオリジナル漫画が掲載された小冊子みたいなのが付いてたんだ」
「そういや、昔はいろいろ付録がついてて、雑誌ごとに量を競って若干インフレ気味だったよな。そっちが三大付録なら、こちらは五個付けたるわみたいな」
「その漫画の中身なんだけど、志村けんさんを主人公にした珍道中物みたいなやつで、基本は戯画化された志村さんのキャラクターがどたばたやってるんだけど、たまに写真を切り貼りで使ったりしてね。昔はそんなのがいろいろあったもんだ。作者もよく分からないし、元の原稿も残っちゃいないだろう。ましてや単行本などになってるなどとはとても思えない、そんな名も無き作品の一つだ」
「ドラえもんとかでもよくあるよな。雑誌の付録に載ってて、すごく変な判型で描かれてるやつとか」
「その中に”敵に囲まれた志村、機転を利かせて大逆転!”みたいなシーンがあってさ。そこで志村さんが”俺ってかっちょいい。カッチョマ〜ン”ってセリフを言っていたんだよ」
「何だい、丸パクリだったのかい」
「まあまあ、それは置いといてだね。君はこの「カッチョマン」という響き、どう思うかね」
「どうもこうも、おふざけというか、ダサカッコダサイというか、三枚目が二枚目ぶってしょってるって感じかな。いかにも志村けん的じゃないか」
「僕も今はそう思っているんだがね。ところが、その時の僕はこれを本当に”カッコいい!”って思ってしまったんだ」
「ふむ、その回路、よく分からんな。確かに『ガッチャマン』には似てなくもないが…」
「僕も今となってはよく分からないんだけど、とにかくその時には素晴らしくイケてるヒーローネームだと思えたんだよ。それに感動した僕は、自分で勝手に仮面ライダー風のヒーローをイメージしてだね、「戦え!カッチョマン」というタイトルで大学ノートにオリジナル漫画を描き始めたのさ」
「何か知らんが、君の中で妙に弾けたんだな。それで、そのオリジナル漫画はどうなったんだい」
「さあねえ、画力不足で頓挫でもしたんじゃないか。何しろ、小学二年生かそこらだ。ドラえもんの模写なんかは熱心にやっていたけど、等身大ヒーローのアクションとかはちょいと手に余ったと想像に難くない。敵キャラとかも考えなきゃいかんしな。そんなこんなで、いつしかそのノートも行方知れずとなり、幻のヒーローは歴史の闇に埋もれていったのさ」
「そんな大袈裟なもんかい。いや、さっきから”カッチョマン”という単語を頭の中で繰り返し唱えてはみてるんだが、やはりカッコいい要素が一つも見当たらない。むしろ、どんどん気恥ずかしくなってくる。何が君をそこまで駆り立てたのか、謎は深まるばかりだよ」
「まあ、”坊やだからさ”とでも言っておくよ。今の僕には知識と経験というフィルターが嫌というほど掛かってしまっている。これはこれで上手に生きていくために大切なことなんだけど、その向こうに生々しい何かがあったことを思い出せないようにもしている気がするね。今日はその尻尾をちょいとばかし掴んでみようと思ったって話さ。じゃあ、今日はここまで」


2022/04/05
『肉函』
 ほら、君も知っているだろう、町の外れの柳の木の下に今では誰が使うともしれぬ真っ赤なポストが立っているのを。あれを見て少しおかしいとは思わないかね。あれだけ長いこと放置されているのに、どうして錆の一つも浮かばずにあんなにも赤々としているのか。月夜の晩にでも通ってみんさい、青白い闇の中に熾火のように煌めいているのが遠くからでも見えるだろうよ。


 そこにはこんな話があってな。今はもう昔、許されぬ恋に落ちて不義の子を産んだ女があった。女は村中から毒婦と罵られ、やがて石もて追われたが、その時女の背に赤子の姿はなかったそうだ。暫く後にこんな噂が立った。追い詰められた女は、幼子をあのポストに呪怨とともに押し込んで、それからどこかの岬で身を投げたのだと。赤ん坊は文にしたためられた我々の秘密や情念を舐めとって育ち、今ではあのポストの内部は外の世界を一切知らぬ彼の成長した肉体でぎゅうぎゅうに満たされており、気圧されるような赤色は、厚い鉄板を通して染み出した彼の血の色なのだと。真夜中に通りかかった者の中には、まるで心臓が鼓動するように、ポストがしゃっくりをするのを見たものもいたそうだよ。


 ふふふ、そんな顔をしなさんな。もちろん、あのポストが使われていないのは行政の区画整理が度々あったからで、錆が付かないのはきっと柳で雨風をしのげるのと、山から降りてくる乾いた風のせいだろうよ。それに、ああいった古いものほど今では危なっかしくて禁止されてるような強烈な釉薬が塗ってあったりするものなのさ。君が思うほど世に不思議なことなんてありはしないよ。ささ、今日はもうお帰り。


(2022/03/16)

■参考文献
夢野久作「爆弾太平記」


2022/03/18
「おやおや、どうしたんだい、そんな恍惚とした表情を浮かべて。何か変なものでもやってるんじゃないだろうね」
「サッカーは民衆のアヘンであるといったのは、マラドーナだったかな。それに倣って言うならば、小説は我々の脳が生み出した妙薬なりき」
「随分と大袈裟だね。そんなに『雨月物語』が面白かったのかい」
「うむ、最初は原文を軽く流し読んで、さっさと現代語訳を読もうと思ってたんだ。意味が分からなくちゃ怪異もへったくれもないからね。でも、原文だけでもそれなりに中身はつかめる。さっぱり分からないところもあるけど、とりあえず頭の中で音を鳴らしてみる。これがね、大変に調子がよろしくてね。これには恍惚とせざるを得ない」
「どれどれ…。”左門慌忙(あわて)とどめんとすれば、陰風に眼(まなこ)くらみて行方をしらず。俯向(うつぶし)につまづき倒れたるままに、声を放(はなち)て大に哭(なげ)く”。ほうほう、これは書き写しているだけもかなり気持ちがいいね。ちょいとばかしメタな物言いだけど」
「それに比べると、現代語訳のぎくしゃくしていることこの上なし、さ。注釈もいささかアカデミズムの自己撞着というか、象牙の塔的な感じがしてしまうね。せっかく素晴らしい料理が目の前にあるのに、細かい食材の蘊蓄とか並べてる場合じゃないだろう。ただただ味わいなさい、その眼と舌で心行くまで」
「まあまあ、そのような地道な解析が文化の基礎となるものなのさ。君の好きな量子力学のロマンチックな世界も、一皮剥けばひたすら白墨まみれで手計算を繰り返してきた物理学者たちの血と汗と涙の結晶なんじゃないのかい」
「ついつい見目麗しい果実にばかり目を奪われてしまうのが、素人の悲しさでね。しかし、そんな名も無きスペシャリストたちのおかげで僕たちの遊び場が守られているわけだ」
「そういうことさ、ハニー。水をひっくり返してもダムを作った人たちの名前は書いてないのさ。では、彼らのために乾杯するとしよう。あいにくワインはないので、出涸らしの緑茶になるがね」


2022/03/17
 本を開くと、先日の地震で滑落した活字たちが、ページの下に固まって黒々とした帯を作っていた。随分と揺れたものな。さぞかし怖かったろう、今助けてやるからな。僕は本を逆さにして、文章が元に戻るまで何度も降り続けた。


2022/03/03
 「探求型小説についてのメモ - TBCN 」


 いやはや、驚いた。彼は僕よりもそれなりに年下のはずだし、仮に元々文学部系の畑にいてその手の文物に囲まれていたのだと仮定しても、この読書量はちょっと並ではない。ここで紹介している分が特定の傾向を持った物の中から絞った「お気に入り」だというのだから、つまり実際に読んだものはもっとあるということだ。その上、各々の歴史的意味や、主題なども的確にまとめ上げている。これぞまさに博覧強記、僕のように大した手札もないのにさも大役が揃ってるような振りをし続けているパチモン風情とはワケが違う。


 それだけでも舌を巻くほどなのに、さらにはサブカル系も立派に(?)こなし、応募したミステリー評論が大手出版社の賞も獲っているというのだから、多分彼には脳が三つくらいあるのだ。


2022/02/19
「何をにやにやしているんだい」
「へへへ、最近こいつを読んでるんだがね」
「どれどれ、『雨月物語』か。名作怪作の誉れ高い江戸期の古典だね」
「文庫でもいろんな出版社から出てるんだが、とりあえずちくま文庫版を手に入れた。注釈はかなりこと細かくやってくれてるんだが、その分本文を細切れで読まなきゃならないのがネックかな。怪異奇想を存分に楽しみたいと思っていた向きには、ちょっと肩透かしな作りではある」
「いささか教科書的な感じだね。古文の教育的テキストとしては、そんなのもありかもしれない」
「現代語訳もちょっと逐語的というか、昔教科書で読んだような妙に持って回ったような言い回しになっちゃってる。そりゃ、原文をそれそのものとして味わえればそれが一番美味しい食べ方ということなんだろうけど、さすがにそこまでの素養もないし」
「学生時代は古文も苦手だったしな。ちょっとだけ蓮実重彦風だったT先生、今もお元気かしらん」
「理想を言えば、現代語訳も秋成がもし今生きていたら書いたであろう文章であってほしいわけさ。つまり、同程度の才能を持った人物こそそれに相応しい。とは言え、そんな才能の持ち主が早々いるわけではないからね」
「うむ、それは海外物の翻訳にも言えそうだけど」
「翻訳された作品を読んでいる時、我々はいったい何を読んでいるのか。例えば、最近思うんだけど、賢治の詩なんか、読み方も分からないような鉱物名とか仏教用語とかが並んでてさ、もう字面だけでうわあってなるほど凄いわけ。その凄味は翻訳されてしまうと跡形もなくなってしまう。そもそも、漢字とアルファベットじゃ文字そのものの役割とか方向性もだいぶ違う」
「文体そのものが持つ美とか構成力とか、そういうものは移植しづらいよな。あと、ダジャレとか」
「フランスにも俳句が好きって人がいるそうだけど、訳文で情景や興趣は伝わっても、五七五の韻律の心地よさは果たしてどうか。僕らが読んでいるボルヘスやナボコフは、本当のボルヘスやナボコフなのか。こいつは果てしない問題だね」


2022/02/16
『ファミリー・アフェア』
 「あなたは、どうして」と私は切り出した。ようやく訪れたインタビューの機会を逃したくはなかった。噂によれば、彼は日がな一日地下室に閉じこもって、宇宙人と交信しながら、ほぼ半分壊れかけのピアノで作曲を続けているという。そうでもなければ、あんな奇妙奇天烈な曲をいくつも書けるものではないだろう、先輩記者の面々も口々にそう話していたものだ。
「鍵盤と鍵盤の間にあるような、微妙なトーンを出そうと努めているのでしょう」
 彼は何かを思い出そうとするようにしばらく黙っていたが、やがてゆっくりとした口調で語り始めた。
「私には姉がいた。二つ上の姉だ。小さい頃は泣かされてばかりでね。姉はとにかくお喋りで、目に映るあらゆるものに話しかけていたよ。私には、彼女にだけ特別にアルファベットが二百文字くらいあるんじゃないかと思えたものだ。それに比べて、私は気弱な子供でね。外を歩く時には、いつも彼女の後ろに隠れていたものさ。当時、私の家にブリキか何かで出来たトイピアノがあった。やたらキンキンとした音を出す耳障りな代物で、なおかつ姉のお気に入りだった。もちろん、正式なレッスンなど受けられるような家庭じゃなかったから、彼女はいつも出鱈目にそのピアノを引っぱたいていただけだったんだがね。それが始まると、私はもう怖くてたまらなくなって、クローゼットの中に逃げ込んだりしていたもんだよ」
 彼はそこで一息つくと、瞼の裏を覗き込むように目を閉じた。
「あれは私が六つの時だ。その姉が突然亡くなった。確か、小児性ナントカ…、うまく思い出せないがやたらとへんてこりんな名前の病気でね。彼女のいない家はとてもシンとしていて、姉との会話を楽しんでいた廊下や家具や調度品がピタッとその口を閉ざしてしまった。空間に満ちていたある種のバイブレーションがすっかりどこかへ消え失せていた。いわば、家全体が彼女の楽器だったのさ。塞ぎこみがちになってしまった両親のためにも彼女の代わりを務めたかったが、私にはそんな才覚はありそうもなかった。せめてもと思って、おもちゃ箱からあのピアノを引っ張り出してきて、彼女が叩いていたメロディとも何ともつかない旋律を記憶から絞り出して再現しようと、何時間も鍵盤と向き合っていた。それが私の原点なんだ。私のピアノは調律がなっていないと評論家の先生方にはよく言われるのだがね、決してそんなことはないのだ。私は今でもあの時のおもちゃと全く同じ響きをキープしているのだからね…」


 結局のところ、私はその話を記事にはしなかった。彼の天上人のようなパブリックイメージを損ねかねないと判断したためだ。編集長には渋い顔をされたが、私は自分なりに彼を守りたかったのだと思う。それから何年か後になるが、私は彼とその姉が一緒に写っている古い家族写真を見る機会に恵まれることになる。半べそ状態の幼い少年の手を握りながら、しっかりしなさいとでも言うように口をすぼめている彼女のチャーミングな表情には、確かにある種の音楽が溢れているような気がした。一つ問題があるとすれば、その写真を見せてくれたのが、その当人であるということである。彼女は地元の高校を卒業後、転勤族の夫とともにあちらこちらを転々とした後、現在では****州で夫婦水入らずの悠々自適な生活を送っている。ひょんなことから所在を突き止めた私が訪ねていくと、「すっかり担がれたようね」と言って彼女は笑った。壊れかけのおもちゃのピアノがあったことと自分がお喋りな女の子だったこと以外は、全部弟の作り話ということだそうだ。実際には喧嘩一つしたことのない仲の良い姉弟で、彼女はヴァイオリンを、そして彼はピアノを習い、週末ともなると近所の人たちが家に集まってきて、彼らの演奏を聴きたがるほどの腕前だったという。「そのおひねりで随分とレッスン料が賄えたわ」と言って、彼女は懐かしそうに微笑むのであった。


 もし、あの時私があのインタヴューを記事にして発表していたらとどうなっていたことであろう。そう思うと、今でも背筋が少しばかりひんやりとしてくるのである。


2022/02/03
「ところで君の体重は何キロだい?」
「唐突にどうした。というか、レディに対して失礼だな」
「どこからどう見てもくたびれたオジサンの癖に何を言ってるんだい。まあ、それはいいとしてだ、最近ちょっと不思議に思うことがあってね」
「何がさ」
「例えば、サッカーのピッチ上では二十二人の選手たちが、飛んだり跳ねたりぶつかったりしているだろ」
「当り前じゃないか。鍛えられた肉体が火花を散らす、これこそスポーツの醍醐味ぞ」
「まあ、彼らがだいたい平均六十キロだとしてだよ。それだけの質量を持った物が何不自由なく動き回ってるってすごくないか」
「ふん? いまいち言ってることがよく分からんが」
「例えば、一リットルのペットボトルなら六十本分だよ。君はそれだけのものを動かせるかね」
「いやあ、無理だ。若かりし頃に飲食でバイトしてた時は、ビールケース二つくらいは持ち上げられたもんだけど。今やったら腰が折れるね」
「それだけの重量を持ったものが当たり前のようにひょいひょいと動いてるんだよ。君だって立ったり座ったり自由自在じゃないか。ペットボトル十二本入りのケース五箱の塊を二十二個揃えて、それにサッカー選手と同じ動きをさせようとしたら、どんだけ手間よ」
「うむ、確かに。手間というか、無理だろ」
「しかし、我々は何の苦もなく自分を動かすことができる。そりゃまあ、鳥のように空を飛んだり、バッタのように高く跳ねたりは出来ないけれど、生活の範囲内でなら自らが重たいなんてそんな感じることはない。こいつは何だか不思議なことだなってね」
「ふむ、段々君が大きなペットボトルに見えて来たよ」
「タンクに六十キロの水を注いでもそいつは微動だにしない。せいぜい風に吹かれて軽く水面が波立つくらいさ。そこにいくらかの有機物やミネラルを混合させただけの我々はこうやって好き勝手に動き回ってる。これこそ、まさに神秘と呼ぶべき事象じゃないか?」
「いやはや、よく喋るペットボトルだこと。どれどれ、蓋はちゃんと締めとかないと」
「いててて、何で鼻を捻るんだよ」


2022/01/24
「そんなわけで前回の続きなんだけども」
「ほいきた」
「この間、久し振りにネットオフで古本を買ったんだ。もういろいろ面倒くさくて、オンライン古書店はブックオフしかチェックしてなかったんだけど、久し振りにネットオフにもログインして掘ってみたら、欲しかった奴が結構安く揃ったんでね」
「ブックオフオンラインも最近は価格設定が強気だよな。ワゴンセール的な楽しみ方があまりできない。アマゾンのマケプレの価格変動と連動しているようでもあり、向こうで高値がついているものはブックオフでもプレミア扱いになっていて価格差がない。で、何を買ったのかね」
「新潮文庫のドイル短編集三冊と、創元推理文庫のポオ全集を三冊。 Tポイントも使えたから、都合千円もいかなかったね」
「ほう、ドイルなんかはブックオフだとすぐに在庫切れになってたよな。運が良かったじゃないか」
「まあ、まだ届いてから封を開けてすらいないけど」
「積読ならぬ、封読だな。一体いつ手を付けることになるのやら」
「そうだなあ、まずは久作全集を片付け、その後で賢治を全部読んで、それから鴎外も全部読む予定だから…」
「おやおや、回り道が過ぎるだろ。それにキンドルの分もあるじゃないか」
「そうだなあ、そちらでは乱歩をとりあえず手当たり次第読んで、『黒死館殺人事件』も再読して、小川未明とか、芥川とか、谷崎あたりもとりあえずたんまりとダウンロードしておいたし…」
「いやはや、それだけ立て込んでる癖に、その上ユーチューブで量子物理学のオンライン講義なんかを毎晩観てはちんぷんかんぷんになってるんだろ。いくら人生百年時代とは言え、すべて味わい尽くせるのかね」
「まったくだ。めでたくすべてを読み終えた暁には、直木賞と芥川賞とノーベル文学賞を総なめにするような作品を自らの手で書く予定なんだがね」
「いやはや、大言壮語もそこまでいけば立派なもんだ。どこかのサッカー選手じゃあるまいし、ビッグマウスもほどほどにな」
「それじゃあ、坊っちゃん文学賞あたりで我慢しておくよ」
「漱石と愛媛県民に失礼だろ。君には太宰賞も谷崎賞も来やしない。せいぜい冷笑と嘲笑が関の山だ」
「お後がよろしいようで」
「ダジャレで締めるようになっちゃあ、俺もお終いだな。じゃあ、今日はここまで」


2022/01/15
「最近、すっかり俺たちの架空対談もご無沙汰だけど、ご主人様はどうしたね。遂に修道院にでも入ったか」
「そんなわけあるかい。相変わらず地べたを這いずり回るだけの冴えない暮らしぶりだと聞くよ。あれこれ考えるばかりで結局は何もしない…、君だってよく知っているだろ」
「なるほど、それを聞いて安心したよ。それなら純粋に思惟だけの存在である俺たちもお払い箱ってことはなさそうだ。で、何か新ネタはないのかね」
「どれもこれも小ネタばかりでパッとしないようなんだが、それで良ければ少しばかり拾っていくことにしよう。例えば、ビリー・ジョエルの「素顔のままで」をギターでコピーしようと思い立ったようでね。そんなに難しくないだろうと思っていたら、結構テンションコードもたくさん出てくるようで難儀しているようだよ」
「へえ、あんなのは山の手のボンボンが聴いているスカシタ音楽だと思って敬遠してたじゃないか」
「そんな言い草はお止しなさいって。まあ、それでコピーは鋭意努力中なんだがね、歌の内容についてちょっと思うことがあってさ」
「何だよ、”飾らない姿こそ最も尊いのである”みたいな話じゃないのかい」
「うん、まあ、そんなところなんだろうけど、ある種のバックラッシュというかさ、女性には学なんていらない、いつまでも愚かでか弱い存在でいろ、何故かっていうと、男のメンツが保てなくなるからだ、みたいなさ。先鋭化するウーマンリブに対する揺り戻しというか、時代的にそういう面もあるのかなと思ったりね」
「男の側からの勝手な幻想ってわけか。せっかくの名曲が台無しだな、そんな言われ方じゃ」
「ジャズのスタンダード「外は寒いよ」の歌詞がハラスメント的シチュエーションを想起させて不快だという申し立てがあったという話がしばらく前にあったけど、いろいろ変化していくんだろうね、このあたりの物の見え方っていうのは」
「地球は宇宙の中心じゃないし、時間と空間はひん曲がるし、素粒子はあちこちに同時に存在しうる…。常識とは何だ?」
「まあ、お堅い話はそこまでにして、最近見つけたプライムミュージックの掘り出し物を紹介しよう。まずは、御大グラント・グリーンの『Easy』というアルバムだ。ジャズギタリストによるポップス系のイージーリスニング的カバーアルバムってのはウェスを皮切りにいろいろあるんだけど、ちょっとその中でも毛色が違う。まずバックトラックがガチ。普通にヴォーカル乗せてもいいじゃんって感じ。リズム隊もカッチリ決まって、そこでだけでも聴き応えがある。ウェスのビートルズカバーなんかはちょっと”ジャズの意地”みたいなのがあってさ、俺なんかはそこでちょっと躓いてしまうんだけど、この『Easy』には全く衒いがない。実に楽しげに弾いているよ。ブルーノート時代の『抱きしめたい』も大好きな作品だけど、一気にそこに肩を並べて来たね。大変に聴きやすい。まさにタイトル通りだ」
「多くのジャズレジェンドがロックやソウルの波に飲まれていったけれど、グラント・グリーンは飄々と乗り切ってる感じはするね。一風変わった存在感がある。クラブ系みたいなところでも評価されてるみたいだし」
「これは偶然だけれども、先のビリー・ジョエルの曲も入ってるよ。さて、お次は七〇年代フュージョンのレア盤 Tarika Blue の『Tarika Blue』だ。全く知らずに何となくジャケットの雰囲気でクリックしたんだけど、なかなか面白かった。二曲目のヴォーカルを聴いていたら、もしかして日本人が英語で歌ってるのかなと思ったんだけど、調べてみたら違った(笑)。でも、日本人ギタリストの川崎燎氏が参加してたり、全体的にあまりバタ臭くない。大野雄二サウンドなんかにも通じる適度な湿り気があるかな。まあ、そのあたり詳しくないので適当だけど」
「川崎燎と言えば、ギル・エヴァンスのジミ・ヘンドリックス・トリビュート録音に参加したことでも知られているよな。このアルバムにもそのまま「Jimi」というタイトルの曲があるね。個人的にはあまりジミっぽさは感じなかったけど」
「まあ、後にジミの奥さんと結婚までしたという度の過ぎた信奉者であるロビン・トロワーですら、あまりジミっぽいとは思わないからな。ただワウを掛けて大音量で弾きまくればジミライクな演奏になるかというとそうでもない。彼特有のダウンピッキングからくる突っ込み気味のグルーブ感とか、ああいうのはかなり意識的にトレースしないと出来ないと思うね。まあ、どんなギタリストにもそれぞれ譜面には起こせない類の微妙な色合いってもんがあるんだけど」
「ふむ、何だかんだで結構ネタはあったじゃないか。音楽の話以外は次回に持ち越すとしようぜ。じゃあ、今日はここまで」


2022/01/08
『掟』
 そのライオンの爪が己の腹を引き裂いた時、小鹿は初めて自分の脚力が草原を跳ね回って遊ぶためのものではなく、このような無慈悲な力から逃れるためのものであること、そして母親たちが常に何事かに怯えていたその本当の理由を知ることになる。薄れゆく意識の中で、これは自分がはしゃぎすぎたことに対する罰なのだとほんの束の間理解したが、その得心の情も掻き切られた頸動脈から流れる鮮血とともに大地にゆっくりと吸い込まれていった。


2021/12/16
『怪物の夜』
 その日は朝から小雨が降っていたと記憶している。シーズンは終盤を迎えでいたが、我がチームは例年通り早々にタイトルレースから脱落し、Bクラスの確定も間近といったところだった。誰もがオフシーズンのことをちらほらと考え始め、いささか気もそぞろになる、そんな中で迎えた首位チームとの三連戦、相手の二勝で迎えた第三戦のことである。先発が踏ん張って僅差の好ゲームとなっていたが、入団五年目、一軍と二軍を行ったり来たりでほぼ敗戦処理専門となっていた私には、時折ブルペンに響いてくる歓声もどこか遠い国の出来事のように思われた。この調子なら登板はなさそうだ、そう思いながら傍らのパイプ椅子からモニターを眺めていると、不意にブルペンの電話が鳴った。
「おい、***、準備しとけってよ」
 受話器を肩と顎で挟んだまま、投手コーチが私にそう告げた。
「俺がですか? この流れなら***さんでしょ」
「それもそうなんだが…。何か考えがあるんじゃないの」
 渋々立ち上がって、キャッチャー相手に肩を慣らしているところにベンチからヘッドコーチがわざわざ出向いてきた。
「代打で***が出るかもしれん。その時にはお前で行くぞ」
「どういうことですか」
「今日は総力戦になってるが、向こうも怪我人が多くて野手が足らなくなりそうなんだ。そうなると、***をバッターで使う可能性がある。考えてもみろ、高校時代は甲子園で何本もスタンドに放り込んできた男だぞ」
 ***と言えば、その前の年のドラフトで多くのチームが競合した末に、鳴り物入りでプロ入りを果たした超高校級のルーキーピッチャーである。第一戦目の先発を任された彼に、我々はにべもなく捻られて完封負けを食らっていた。
「あの監督ならやりそうですね。明日の新聞の一面も決まりかな」
「だろ。そんなわけで、うちの一線級に恥をかかすわけにはいかんとボスがえらくご立腹でね」
「俺なら打たれても平気ってわけですか。まあ、確かに今更気にはしませんよ」
「そこがボスのお気に入りのところでな。良くも悪くもプライドがない。じゃあ、頼んだぞ」
 そう言い残すと、ヘッドコーチはいそいそとベンチへと戻っていった。


 結論から言えば、誰もが知るように、***が打席に立つことはなかった。球場が一種異様な雰囲気に満たされる中、バットを持った彼がネクストバッターズサークルで待っている間に、サヨナラ安打で試合が決まってしまったからである。その時の映像は今でも珍プレー特集番組の定番であるし、打った当人も「世紀の瞬間をおじゃんにした”空気の読めない”男」として、引退後も度々メディアを賑わせている。もし、あの時***が打席に立ち、その対戦相手として私がマウンドに立っていれば…、そんなことを考えないでもない。
「あなたって人はとことん持ってないのよ、諦めなさい」
 妻は何かにつけて、そう言う。こんな私でも高校時代はエースで四番で鳴らしたものだった。ちやほやされてのぼせていた私を真剣に叱ってくれたのが、当時女子マネージャーのリーダーをしていた彼女である。あの時の涙は今でも忘れられない。
「でもねえ…。せめて、三勝くらいはしてくれると思ったんだけどな」
 そんなことを独り言ちながら、写真立ての中で控え目にガッツポーズをしている入団会見時の私のユニフォーム姿に向かって、彼女は時折小さなため息をついている。


2021/12/10
『朝のゾンビ』
「朝か」
 俺はそう呟くと、夜気に凍てつきシャーベット状になった体液が関節周りでシャリシャリと鳴るのを感じながらゆっくりと身を起こした。本当かどうかは知らんが、同僚のサムが言うには、車用の不凍液を飲み続ければこいつもいくらかマシになるらしい。もちろん、眉唾もいいところだ。あいつときたら、生きてる時から口から出まかせの適当なヤツだった。死蝋になったところで、本性が変わるとも思えない。


 棺桶の蓋も年々重くなっている気がする。仕留める人間の数も、なりたての頃に比べると明らかに物足りない。死んでなお老いていくのか、いや、俺達の場合、正に「朽ちちていく」と言うべきなのか。そんなことを思いながら墓場を出た俺の脇を、小さなつむじ風が枯葉をカサカサと巻き上げながら通り過ぎていった。


2021/11/15
「また、山下話なんだがね」
「前回で懲りたんじゃないのかい。まあ、聞こうじゃないか」
「今回はちゃんと調べたんだけど(「山下達郎 いつか 歌詞 - 歌ネット 」)、この「いつか」という曲は吉田美奈子が詞を書いている。曲調はとても軽快だけど、詩の内容は読みようによっては結構ヘビーにも受け取れる、そんな曲だ」
「それで、それがどうしたってのさ」
「あまりネットのニュースサイトなんかは見ないんだけどさ。最近、とある悲しい事件があった。それが初めてのケースというわけでもないし、嘆かわしいことだが、おそらく最後でもないだろう。その続報なんかが目に入る度にやるせないというか、憤怒の気持ちが沸き上がってきて頭がくらくらするというかね、気持ちが強くかき乱される。そんな折りに久しぶりに『Ride On Time』を聴いたわけさ」
「なるほど。「いつか」はオープニングチューンなんだな。サビの部分なんかはよく覚えてるけど、歌詞全体をきっちり考えてみたことはなかった。こんな内容だったのか」
「それを聴いてたらさ、なんだか、その手の事件の被害者や、そういったものを目にして心を痛めている人たちに向かれて書かれているような気がしてね。発表は一九八〇年なんだけど、その頃からその手のことは起きていただろうし、それから四〇年余り経ったわけだけど、一ミリも改善される気配がない」
「ふむ、そんな風に読んでみると、なかなかシビアな歌のようにも思えてくるね」
「この曲が直接何かを成しうるというわけでもないし、敵は常に強力だ。ただ、それでも”SOMEDAY 何かが見つかる”という祈りのような思いだけは持ち続けていなくちゃならない、そんなメッセージが込められているのかもね。まあ、今述べた一切合切が全部俺の思い違いかもしれないけどさ」
「芸術の尊さと無力さか。ピカソが「ゲルニカ」を描いたのに、ジョン・レノンが「イマジン」を歌ったのに、未だに地球は火薬の匂いでいっぱいだ。心なしか本当に焦げ臭くなってきたような…」
「それはトースターの匂いだろ。さあさあ、ちょうどパンが焼けたようだから、君はコーヒーを淹れてくれないか」


2021/11/06
 パット・マルティーノが亡くなった。最近まで知らなかったが、ここ数年は難病の治療のために闘病中であったらしい。演奏もできない上に、高額の治療費が掛かるため、彼の友人が資金集めのためのクラウドファンディングを立ち上げていたようだ。もっと早く知っていればと、少しばかり悔やまれる。


 彼のサウンドを特徴づけている、太い弦と重いボディから繰り出されるくぐもった音色は、なんだか雨の日の独り言のようである。何気なく手に取れる場所にアルバムがいつでも存在するようなタイプのミュージシャンではない。ギターという楽器に孤独の慰めを見出すような魂の持ち主ならば、いつしか必ず彼の作品を探し当てることになる、そんなギタリストだ。そのようにして、これから先も綿々と聴き継がれていくに違いない。


 余談であるが、彼の細君は Aya Martino という人で、日本人なのだそうだ(参照元:「Pat Martino : Family, Net Worth, Parents, Wife, Children and Biography - Top Stories, celebrity News, World News - HaqExpress.com 」)。僕が最も好きなアルバムは『Footprint』である。


2021/11/05
 ニュースです。本日未明、**市の海岸で釣りに来ていたと思われる男性客が倒れているのが発見され、病院に搬送されました。急性の食中毒と見られています。救急隊員によりますと、男性は「魚と思って吊り上げたらたい焼きだったので思わず食べてしまった」などと意味不明なことを口にしているということです。続きまして…。


2021/10/29
 こんばんは。DJ TOKKY です。スティーブ・ヒレッジというギタリストがその昔カーンというバンドを率いていたのですが、スティーブ・カーンという人がジャズギタリストでいまして、ちょっとごっちゃになるんですね。おまけに、スティーブ・キューンというピアニストもおる次第でして、誰がどのジャンルで何を演奏する人だったかが時々ぐるぐるして分からなくなります。では、本日の一曲目、シュープリームスの「Stop In The Name Of Love」をお聴きください。


2021/10/28
 こんばんは。DJ TOKKY です。いったん止めたシャワーをもう一度使い始めた時のお湯になるまでの時間が長くなったことで、季節は着実に冬に向かっていることを実感した次第です。さて、この待ち時間をあらかじめ通年で概算しておけば、もしあなたがどこかの国の極悪非道な独裁者に日の光も当たらぬ苔むした地下牢(シャワー付き)に閉じ込められた時でも、この長さからおおよその季節を割り出すことができます。そうすれば、毎日食事を運んでくる仏頂面の看守に粘り強く時候の話題を話しかけることで次第に彼の心を解きほぐすことができるでしょう。そして、最後には彼の力を借りて脱獄に成功するのであります。科学って素晴らしい! では、本日の一曲目、新月で「科学の夜」をどうぞ。


2021/10/26
 こんばんは。DJ TOKKY です。二年ほど前から寒くなると大量の鼻水が出るのですが、チョコ菓子を多めに食べた次の日の朝なぞ、鼻を噛んだティッシュに鮮やかな毛細血管が混ざっていてちょいとビビります。では、本日の一曲目、My Bloody Valentine の「Soft As Snow(But Warm Inside)」をどうぞ。


2021/10/25
 こんばんは。DJ TOKKY です。日に日に寒さも募ります。こんな日は、イエローストーンのハイイロオオカミやバイソンたちが元気にやっているかどうかが気になる、そんなナショジオ大好き人間の方も多いのではないでしょうか。では、本日の一曲目、ドナルド・フェイゲンで「I.G.Y」をどうぞ。


2021/09/04
「…その時、私はこの些細な出来事がこのような大事に発展しようとは、夢にも思わなかったのである」
「おいおい、いきなり何かね。読書のし過ぎで遂に文語しか話せなくなったか」
「それはそれで楽しそうだがね。まあ、聞いてくれたまえよ。まずは、サブで使っているノートパソコンの Wifi の調子が悪くなってね」
「インターネットに繋がらなきゃ、ご自慢のパソコンもただの薄っぺらい板だからな」
「だもんで、まずは Wifi の設定をいろいろいじくった。省電力モードをオフにしたり、ドライバーが最新かチェックしたり、ウィンドウズの診断ツールを何度も試したり…。ところが、なかなか改善しない。しょっちゅう電波状態が悪化して切れちまう」
「なるほど、共有ネットワークを常用している身からするとかなり地獄だな」
「まずはパソコンの内臓 Wifi アンテナがいかれたのかと思って、 USB 接続の外部アンテナをぽちったりした。その後で、ルーター自体を再起動したんだ。すると、なんと恐ろしいことに、今度はスマホがインターネットに繋がらなくなった! 電波は捉えてるんだけど、インターネットにまでたどり着かない。共有ネットワークは繋がるから、どうも外部に出ていけないらしい。こいつも四年ほど使ってて、最近バッテリーのへたりを感じてたんで、遂に故障したかと思って、とりあえず安いスマホ本体をアマゾンで注文しちまった。しかし、その直後にタブレットも同じ症状に陥っていることが分かった。そうなると、もうこれはルーター自体がおかしくなってるのかもしれないと思って、スマホをキャンセルしてルーターを注文した」
「忙しいな。まあ、 Wifi のトラブルは大体パニクるよな」
「この散々なトラブルの間も、iPod touch だけは平然と繋がったのはありがたかったね」
「ほう、こいつはアップルさんの好感度爆上がりだね」
「そうそう、次にタブレットを買い替える時には iPad を買おうかと思ったほどだよ。それでだ、先のキャンセルが間に合わなくて、スマホは翌日届いちまったんだよね。で、新しいスマホもやっぱり電波はつかめどインターネットには繋がらないときたもんだ。その後、ルーターが届いたので、古い方と交換した。まあ、八年ほど使ったから切り替え時ではあった。規格も低速な古いものだったしね」
「ようやく一安心だな。電波強度も上がって、皆幸せになってめでたしめでたしってとこか」
「ところがまだ話は終わらない。ルーター入れ替え後もやはりスマホでインターネットに繋がらないという現象は収まらなかった!」
「”オーマイガ!”だな。八方塞がりじゃないか」
「パソコンは繋がったので、あとは検索しまくりだよ。なかなかこれという情報にたどり着かなかったが、ようやく見つけた正解が”動的アドレスから静的アドレスに変更する”というものだった。詳しくは『Wi-Fiにビックリマークが出て接続できない!?これを試して1発解決! | モブスタ』を参照してくれたまえ。いや、これには本当に助かった。ここにたどり着くまではルーターを再起動しろとか、障害物がないか確認しろとか、そんなレベルで治るなら苦労しないよってのばっかりでさ。このサイトこそもっと検索結果の上位に出てくるべきだと思うんだけどな」
「”8.8.8.8”とかそんなのよっぽどの人間しか知らないよな。これでついに万事解決か?」
「ところが最後にラスボスが残ってた。 Kindle のことを忘れていたんだよ。この特殊端末も固定アドレス化してやらねばいけないんだが、やりかたは『KindleがいきなりWi-Fi接続できなくなった - Windowsパソコン 使えるツール&テクニック』に詳しく出ていたので非常に助かった。パソコンやスマホとは設定画面が違ってるし、キーボードのレスポンスも遅いし、失敗したらまた最初から全部打ち直さなくちゃいけないにもかかわらずコピペはできないしで、これはこれで非常に面倒臭かった。…こいつが繋がった時、俺はようやく勝利を確信した。この忌まわしき電波との見えない戦いにようやく終止符を打つことができたのだ、と」
「まあ、そんな大仰な言い回しもしたくなるわな。まったくもってお疲れさん」
「最後の大オチとしては、この設定をすれば実は古いルーターでも繋がったのではないかという疑惑が出てきたというところかな。まあ、高速化できたことは出来たんで別に元に戻して検証する気もないけど。あと、スマホも新しくする必要はなかった。まあ、新しい方は画面占有率も高くて動きもサクサクなんでこの際だから乗り換えようかなと思ってるよ。パソコンの方はまだそれでも時々切れる時があるんで、 5Ghz 対応の外付けアンテナでも買ってみようかと」
「無線と君との戦いではどちらに味方すべきか、例のプラハ市民ならどう答えるかね。じゃあ、今日はここまでにしとこうか」


2021/08/14
「いやあ、あらためて引っ越しってのは大変なもんだね」
「そいつはご苦労さん。確かに段ボールだらけで困ったもんだ。それで、ちったあ広々としたのかい」
「そりゃもう、二倍になったからね」
「これはまた随分と奮発したね。さぞかし快適だろうに」
「何しろ、初の 8GB マシーンだぜ。ストレージに至っては四倍にもなった」
「何だよ、パソコンの話かい。相変わらず真に受けると損をするね、君の話は」
「これはこれで大変なんだぜ、実際。旧マシーンから設定を引き継がせるのは本当に神経を使う作業だ。以前、Windows7 から Windows8 に環境をコピーしようとした時は、なんやかんやで結構時間が掛かった。何しろ、未だに Windows98 ベースな使い方をしているからさ。動かないソフトも出てくるし、システムのパスもいろいろ変わってくるし、一番厄介だったのは、”C:\Program”というフォルダを Windows8 はシステム側で許可してくれないんだよ。そこに主だったフリーソフトを全部突っ込んで使ってきたのにさ」
「そうだった、そうだった。設定ファイルやスクリプトのあちこちにそのパスが使われてるから、それを探し回って一括置換ソフトで全部書き換えなきゃならなかったな」
「まあ、ルート直下にそんな重要そうなフォルダ名を付けちゃった俺が悪いんだけどさ。それに比べると、今回は Windows10 から Windows10 だったこともあるけど、随分と楽だった。フォルダを丸々コピーすれば、ほぼほぼ同じ環境になったしね。後は IME のキー設定とユーザー辞書をインポートして終了。何か不具合が起きないかとしばらくはひやひやしたけど、今のところ大きな問題はなさそうだ」
「同じメーカーの同系シリーズで外観も全く同じの 2016 年モデルから 2018 年モデルへの移行だったってのも大きいかな」
「そうそう、見かけはそのまんまでスペックだけグレードアップできた。先代にそんな文句があったわけじゃないんだけど、ダウンカーソルとかデリートキーが反応しなくなったりしたんで、さすがに AHK でのキースワップだけでは限界だと思ってね。 CPU は若干グレードダウン気味だという記事も見掛けたけど、送料込みで一万円ジャスト、楽天のクーポンとポイント利用で 5500 円弱で入手できたんだから有り難い」
「インターネットフリマさまさまだな。初めて買ったノートは二十五万もした上にメモリもたった 64GB だったことを思うと、ムーアの法則ってやつを実感するね」
「ただ、ちょっと底面の発熱が気になるかなあ。膝の上が温くなる。省電力 CPU という触れ込みではあるんだが。先代はここまでじゃなかった」
「たまにはひっくり返して放熱してやらないといかんかもな。しかしだね、 Windows11 がもうすぐ公開されようかというタイミングで、嬉々として Windows10 を買ってるというのも君らしいや」
「まあ、どうせ公開直後はバギーだと思うし。あと、不思議なもんで、人から譲り受けた物の方が値段が安くても大切に使わなきゃって思えるね。今回は iPod touch にも手帳型のカバーを付けてるよ」
「いい心掛けだ。是非、自分の心にもカバーを付けてやってほしいね」
「何か言ったか?」
「いや、別に」


2021/08/03
「何をニヤニヤしてるんだい」
「理由はこれさ、ほれ、見てみろよ」
「ほう、遂に新しい iPod touch を手に入れたのかい。これはスペースグレイだな。カッコいいじゃないか」
「最初はブルーが欲しいと思ってたんだがね。いろいろ見ている内に、どうもちょっとはしゃぎすぎてる感じがして気に食わなくなってきてね。先日入手した無印 Kindle がブラックですごく落ち着いてるだろ。あれに引っ張られたかもしれない」
「紺のカバーも付けたしな。あの佇まいはいいよな」
「フリマサイトをこの一月ほど隈なく見て回って、まずはプロダクトレッド、シルバー、グレイの三色に絞った。この中で前面のベゼルが黒いのはグレイだけなんだよね。ここが決め手になったかもな。値段で言ったら他の色の方が安いものはあったんだけど」
「確かにちょっと高級感はあるね。先代のホワイトとピンクのコンビネーションも可愛かったけどな」
「ほとんど新品同様で定価より六千円ほど安く買えたから、その点でも満足だ。先代では愛用のアプリにかなり不具合が出てきていて、出来なくなった作業を補完するために複数のアプリを使い分けなくちゃいけなくなってたんだが、こちらはさすが第七世代の最新 OS だ。そのアプリも完璧に動いている。動作も全般的にサクサクだ。こいつは一気に未来に来た感じがあるね」
「第五世代のピンクでは OS のヴァージョンが追い付かなくてインストールできないアプリだらけにもなってたし、バッテリーの劣化も含めて潮時だったってことなんだろうな」
「かなり頑張ってもらったとは思うんだけどね。細かいところを我慢すればまだまだ使えなこともない。寝る前にアルバム一枚流すくらいなら全然いけるよ」
「そう言えば、フリマサイトでも五千円くらいで結構出てたよな、第五世代も」
「まあ、愛着があるんで俺は手放す気はないかな。細かい傷や凹みも散見するし、液晶もちょっともやっとした箇所があったり、全体的に黄ばみが出てきてる。人間で言ったらおばあちゃんだよ。余生を悠々と過ごさせてあげたいね。例えば、キターチューナー専用とかさ」


2021/07/22
「今日はお詫びから入らなきゃならないんだがね」
「何だい、何か過去の発言でも掘り返されて炎上したかね」
「過去と言ってもついこの間の話さ。山下達郎の曲の歌詞についてあれこれぶちあげただろ。ところがだよ、あれってさ、歌詞はそれぞれ別の人が書いていたんで、それを以って山下達郎の内的な表現が通底しているとは一概に言えないということが明らかになったのさ」
「なるほど。山下本人がどれくらいコミットしてたかまでは分からないしな。完全に委託してたかもしれないし、何となく彼のパーソナリティを知った上で書かれたとか、親交があって”俺の雰囲気で書いてくれない?”みたいなこともあったりしたかもしれない。まあ、それで無知が許されるわけじゃないけどな」
「単体での評価はまだいいとしても、別人が書いた二曲にまたいでしまったからな。これは猛省せざるを得ない。ちゃんとクレジットまで見てなかった」
「それでも、達郎ソングの歌詞に関していろいろ引っ掛かるところがあるのは事実なんだろ。例えば「氷のマニキュア」は松本隆だけれど、あれには特に引っ掛かってはいないわけだ」
「まあ、松本信者だからってのもあるけどな。あれは曲を聴く前にライナーで作詞者が分かってたというケースだから、やや判断が難しい。でも、確かにあれには引っ掛かりはしない」
「さて、かつての賢人は言ったそうだ、”過ちて改めざる、是を過ちという”ってな。君も反省しているようだし、何しろこのサイトの読者なんてほぼいないんだから、誤った認識が世の中に広がったとも思えんしな。これからはファクトチェックを怠らないってことで、この件はこの辺りで手打ちにしようぜ」


2021/07/10
「また、山下達郎の話なんだがね」
「しつこいね、君も。まだ文句があるのかい」
「別に文句を言ったつもりはないんだが。まあ、それはいいとして、再び「LET'S DANCE BABY」に御登壇いただこう」
「はいはい、手塚治虫に向かって絵空事ばかり描いてるんじゃないと言ってのけた東大生の構図だな、こりゃ」
「冒頭の歌詞はこうだ。”悲しみを微笑に/見事すり替える/鮮やか魔術の BABY/OH, BABY”。これ、どこかで聞いたことないか」
「うむ、そこはちょっと気にはなっていた。俺たちが最初にドはまりした『FOR YOU』の「Sparkle」にも似たようなフレーズがあったよな」
「一分四十秒あたりにこんな歌詞が出てくる。”素敵なざわめき/心に投げかけて/ただ懐かしい/思い出にすり替える”。どうだろう。”すり替える”というのは、多分ポップスの歌詞としては登場頻度の低い部類に入ると思うんだ。むしろ、ネガティブなイメージも若干感じられなくもないから、使いたくない単語のような気がするね」
「そうだなあ、”スリ”という言葉はあまりいいものではないし、ちょっとズルをしている感じもあるよな」
「まあ、それでもこれだけ短いスパンで二回も使ったってことは、そこに山下達郎にとって内的な必然性があるわけだよ」
「意味を単純にたどれば、ネガティブな心理をボジティブなものにチェンジするということだから、そういうモティーフは他のポップスでも常套的に使われているよな。というか、ほとんどの曲がそうかもしれない」
「うん。でも、達郎は”すり替える”という言葉を使うんだな。”いろいろあったけど、なんやかんやで最後にはハッピー”というところに着地してるわけではない。それがただの”すり替え”だと言っている。ちょっとサイコロジカルじゃないか」
「一見華やかに見えても、問題は実は解決されていない…。そうなると、ちょっと怖い話だね」
「とても楽しげでポップな山下達郎ワールドだけど、”誤魔化されんなよ、こんなのは見せかけなんだぜ”と言っているのかもしれないね。他の歌詞でもそうだけど、所々屈折した感情の存在を思わせるものがなくもない。クラシカルな意味で悩み多き青年であっただろうことは伺えるかな。まあ、ポップスターに屈折した人が多いというのは、エルビスの昔からのことだろうけど」
「つまり、”「表現」=「補償」論”だね。苦痛が深ければ深いほど、それを打ち消すための強い表現が必要になるというような」
「つまり、己の中のネガティビティを打ち消すためにポジティブな表現をしている。”クリスマスイブに彼女が来なかったから切ない。よし、この想いを曲にしよう”という人ではないんだよ」
「そうだな、もっと情念というか、メラメラしたものはあるよな。”愛”、”心”、”魂”みたいな言葉もよく出てくる」
「うん、そこはちょっと作詞家としての限界というか、そういった概念をどういった表現で伝えるかってのが詩の腕の見せ所だと思うんだけど、直接使っちゃうんだよね。そこは、”どうだい僕と指切りしないか/約束なんて何もないけど”と書く松本隆の方が一枚上手だって感じはするね」
「何だよ、結局いちゃもんかい。ファンなんだか、アンチなんだか」
「いやいや、とてもリスペクトしてるのさ。俺は一時はっぴいえんど地獄にハマって二進も三進も行かなかったんだけど、そんな時にシュガーベイブのリマスター盤が出たんだ。あの一曲目、「Show」の瑞々しさと言ったらなかったよ。あれが王子様のキスになってすっかり呪文が解けたってわけ」
「何だか、物々しいな。ポップミュージックってそんなややこしいものだったか? まあ、今日はここまでにしとこうぜ」


2021/07/02
「何か言いたいことがあるそうじゃないか」
「最近、山下達郎の『GO AHEAD!』というアルバムにハマってるんだけどね。その中の一曲、「LET'S DANCE BABY」という曲についてちょいと一席ぶちたいと思ってね」
「いかにも彼らしいドリーミーな曲じゃないか。何か文句でもあるのかい」
「文句って程でもないんだが、一部の歌詞がちょっと気になってさ」
「またぞろ、はっぴいえんど信者からのいちゃもんなんだろ。あんな高みから見たら、そりゃすべて俗人の仕業に見えるさ。ファーストアルバムの通称”ゆでめん”の内ジャケットを見たことがあるだろ。松本隆はそこの謝辞の中にバタイユの名前を挙げているんだぜ。そんな人に敵いっこないよ」
「まあまあ、そういきりたたないで聞いておくれよ。まずは、Bメロのところにある、”君の呼び名はイカロス/信じられない翼をつけて”ってところだな」
「何がおかしいんだい。イカロスに翼は付き物だろ」
「うむ、この”信じられない”ってのがちょっとどうかと思ってね。ここはもっと翼自体のことを美しく形容してほしいんだよ。”信じられないほど素晴らしい”なんて詩的表現とは言えないだろ」
「いや、ちょっと待てよ、この”信じられない”はそういう意味じゃなくて、いわゆる”イカロスの翼”のことを言ってるんじゃないか? 蝋で固めただけの”信用できない翼”という意味で」
「…なるほど、それは確かにそうだな。しかし、それだとこの歌の主人公である女性は墜落してしまうことになるんだが、それだとこのパートのポジティブな雰囲気とは合わない気もするな。何しろ、”飛んでコズモス”と続くんだから」
「そんなハンデがあるにもかかわらず飛び上がれるってことで、彼女のチャームを強調するということなのかね。しかし、そもそも女性のことをイカロスに例えるのはどうなんだろう」
「じゃあ、ここはちょっと保留ということにしておくか。で、お次は”心臓に指鉄砲/それでお手上げさ/虜になったよ”という箇所なんだがね」
「何だよ、この曲で一番キュートなところじゃないか。ライブではお客さんが一斉に指でパーンとやって盛り上がるらしいぜ」
「うん、まさしく江口寿史的というか、シティポップの面目躍如というところなんだが、これもちょっと説明しすぎという気がして調子が少し狂うんだな」
「面倒臭い男だね、まったく。そんなことは考えたこともないよ」
「そのジェスチャーに対する反応は、聴き手が想像したり、感じたりすればいいことなんであって、それを二節に渡って説明しちゃってるのが、どうも詩的じゃない。阿久悠ならこうは書かないと思うね。せめて、”それでお手上げさ”だけにしておいて、次の小節は歌詞を抜いてもいいんじゃないかと思う。というか、この二節は感情的には同じことを言ってるんで、そもそもくどいんだ」
「だから、そのくらいチャーミングだったってことだろ。それこそ江口寿史のイラストの世界だよ。お前さんだってそんなことされてみろよ、歌詞と同じフレーズが真っ先に浮かぶに決まってるだろ。やれやれ、指鉄砲どころか、全国の山下ファンに石を投げられるぜ」
「そいつは参ったな、これから「潮騒」という曲についてもっと辛辣なことを言おうとしていたんだが、それは差し控えておくか」
「賢明だ。”2000トンの BOMBER”が飛んできちゃたまらんからな。じゃあ、今日はここまで」


2021/06/21
「電子書籍の手馴らしとしてとりあえず、乱歩の『屋根裏の散歩者』を読んだんだがね。やはり、初期の乱歩はピリッとしてていいね。実はその前に動画サイトに投稿された朗読ヴァージョンを途中まで聴いていたんだが、俺はやっぱり自分で読む方がいいな。作品にもよるかもしれないけどね」
「『二廃人』、『二銭銅貨』あたりは面白く聴いたじゃないか。まあ、その時はキンドルを買うことになるとは思ってなかったけどな」
「で、今は『悪魔の紋章』を読んでる。この時期になるといささか大味な感じになってはいるけれども、大胆なトリックはさすが乱歩大先生だね。思うに、乱歩という人は、世に出る以前の怪奇マニアだった時代にいろんなアイデアを溜め込んでいたと思うんだよ。そして、表現される場を与えられた時、それらを一気に吐き出したんじゃないかな。初期作品群の才気たるや、筆舌に尽くしがたいものがあるよ」
「二十面相だのなんだのになってくると、確かに大味ではあるな。職業作家になって以降も『鏡地獄』みたいな話を続々と思いつくってのもちょっとなさそうだし。ミュージシャンなんかでも、そんな話はよくありそうだけど」
「明言は避けるが、あんな人や、こんな人の顔が浮かばんでもないね。では、閑話休題。ちょいと話は逸れるんだが。この『悪魔の紋章』は、ある実業家が恨みを持つ犯人に狙われるという話なんだけど、彼の先代である父親が残酷な手段で家禄を強引に継いだことが動機の源になってる。これって、横溝の『犬神家の一族』なんかもそんなのが背景にあるじゃない。だから、混沌とした世相というか、当時はそういう実業界の血生臭い話ってのがゴロゴロしていたのかもしれないとか思ってね。乱歩や正史も、どこかの酒場でグラスを傾けながらそんな話を耳にしていたのかもね」
「某一大企業グループの創設者を題材にした『血脈』という本もあったな。あれもなかなか気が滅入る話だった。いつ刃傷沙汰が起きてもおかしくない、そんなどす黒い世界だ」
「それは決してどこか遠い場所にあるわけじゃなくて、俺も歩いて辿りつけるようなところにあるのかもしれない。そして、俺もその毒気にうっすらと染まっているのかも」
「おやおや、穏やかでないね。何だか外の雲行きも怪しくなってきたよ。こいつは夕立が来るね」


2021/06/19
「こいつはまずいね」
「藪から棒にどうしたい。トラブルは御免だぜ」
「キンドルがヤバい。このフラットな画面に慣れてしまうと、紙の方がいろいろノイズが多いなと感じるようになっちまう。曲がるし、歪むし、めくったり押さえたりといろいろハンドリングが必要になる。これがないってのは結構なもんだよ」
「これまた随分な手のひら返しだね。あれほど電子書籍には疑問を呈してたじゃないか」
「今まではてらてらしたディスプレイで読むのがどうも性に合わなかったんだけど、この電子書籍専用のキンドルは落ち着いてていいよ。解像度的にちょっとざらざらしてるのも、古本を読んでるみたいでさ。今は乱歩を読んでるけど、妙にハマるね。逆にもっと若い作品だと、ちょっと空気感が合わないかもしれない。今時の文庫本なんて本当キラキラしてるからね」
「なるほど、手の中に古書店があるって感じなんだな。高校時代、市中の古本屋はほとんど把握していた君にとっては天国のようなデバイスじゃないか」
「今のところ青空文庫モノしか手を出してないけど、この気持ちよさで読めるのなら、中古をマケプレなんかで買って到着を待つより、電子版をその場でサクッと買ってしまうということもありかなと思うね。まだちょっと割高感があるけど」
「だったら、思い切ってサブスクにするって手もあるんじゃないか」
「それにしては、まだ電子化されているものが少ないかな。今時の書籍なら、原稿の段階で既にデジタルだろうけど、一昔前だとそうもいかないしね」
「著作権の期間も延長されたから、青空文庫もしばらく停滞しそうってのも困り者だな」
「一律にせんでも、例のネズミちゃんだけ永久著作権でも認めてやればいいのに。この調子じゃ、二十年後にまた難癖付けて延長迫ってくるんじゃないの。まったく、カラオケボックスじゃあるまいし」
「おやおや、俺はその話に飛び込む気はないぜ。セーラー姿のアヒルの水兵さんに狙われたら敵わんからな。じゃあ、今日はここまで」


2021/06/12
「さっきから首を捻って、どうしたっていうんだい。寝違えでもしたかね」
「いやね、ちょっと気になる表現があったもんだから、それについて考えてたらどうもよく分からなくなってきてね」
「そりゃ、いったい何だい」
「君は、”〜すべきだ”の否定形をどう言う?」
「そりゃ、”〜すべきではない”じゃないかね。俺には自明のようにも思えるが、それがどうかしたのかい」
「うむ、俺もそれが自然な表現だと思うんだが、最近立て続けに”〜しないべき”という言い回しを見掛けてさ。これはどうしたものかと思ってね」
「なるほど。前半の”す(する)”をひっくり返しちゃうんだな。まあ、意味は通ると言えば、通るか。ただ、もやもやっとはするね。”しない”という否定と強い推奨の”べき”が合わさると、論理として元の意味をちゃんとひっくり返したことになってないのかもしれない」
「ただ、そこをひっくり返す方が言語的には効率的というかさ、少ないエネルギーで済む感じはするよな。”〜するべきではない”とか”〜は避けるべきである”みたいにちゃんと裏返そうとすると、そこにある種の構成力のようなものが必要になってくる。これはもう随分と知的な作業だよ」
「うむ、だから、”しないべき”というのは効率的とも言えるし、単純に横着した結果とも思える。こういう細かいことが積み重なることによって、言語は変化していくんだろうな」
「しかし、”日本語の乱れを見逃さないべきである”なんてのは、俺にはやっぱ気持ちが悪い。ここはしっかりと”日本語の乱れを見逃すべきではない”と言い続けたいね、心掛けとしては」


2021/06/09
「どうしたい、渋い顔して」
「いや、最近娘の調子が悪くてね」
「君に娘がいたとは知らなんだよ。それはさぞかし辛かろう。心中察するよ。何かご病気でも」
「どうも寿命が近いらしい。バッテリーの減りも早いし、ジャックのコネクト部も少しばかり緩んできてる気がする」
「何だよ、六年前に買った iPod touch のことかい。心配して損したな」
「済まん、済まん。そんなわけでぼちぼち買い替えなきゃいけないなと思ってるんだけどね。ちょっと気になる話もあってさ」
「ふむ、ガジェットの擬人化が禁止でもされたかい」
「ハハハ、結構根に持つんだな。まあ、それはいいとして、iPod touch は現在、俺が今使っている第五世代から二世代更新された第七世代が販売されている。スペックも大幅に強化されていて、値段はほぼ据え置きという優等生だ。これにしておけばまず間違いはなかろうというところなんだけど」
「とは言え、それなりに値も張るわな」
「アンドロイドベースの携帯プレイヤーでもっと安価な物はないかと探してはいるが、どうもどこも本腰入れて iPod touch の市場を狙っているようには見えないね」
「そやな。それなら安価な中華スマホを音楽専用機にしてもいいじゃないかってことにもなる。まあ、iPod touch の至高のサイズ感は失われてしまうけど」
「スマホと iPod touch の二台運用がしっくり来てたしね。並んでスタンドに収まってると兄と妹みたいな感じで可愛いんだ。ここはキープしたいところなんだよ、完全に気分の問題だけど」
「頑張ればスマホで全部賄えなくもないけど、機能ごとにデバイスを切り替えた方がその作業に集中できるんだよな。音楽を聴く時はこれ、映像を観る時はこっち、みたいに」
「そこにきて、この秋に第八世代の iPod touch が出るのではという噂があるらしいんだよ」
「ほお、それは確かに気になるね。まあ、あんたの使い方なら第七世代でも相当幸せになれると思うがね。実際、ほとんど音声ファイルの再生にしか使ってないしな。だから六年も持ってるんだろう」
「そうだね、俗にバッテリーは二年で駄目になるというし。それから、第八世代が登場することで先行版の値下げとかもあるかもしれない。よって、今はステイしておくべきなのかも」
「業界でも評価の高いアップル純正チップを載せてきたりもするかもしれないしな。かてて加えて、ロスレス音源が標準化していきそうな流れにも完全対応するかも」
「最近はその話をよく目にするね。昔はリアルオーディオとか Ogg Vorbis とかでいかに音質をキープしつつファイルサイズを小さくするかってことに血眼になっていたのに、ロスレスが当たり前になるなんて、いやはや、すごいことになってきたよ」
「 LAME のバージョンはどれが最強かとか、コマンドラインオプションはどの組み合わせがいいとか、その筋の人たちがさんざんやってたよな」
「ロスレスでは WavPack を俺は推していたんだがね。最近じゃ、ちっとも聞かないな。あの頃は圧縮速度が他形式と比べても抜きんでて爆速だったんで、もうちょっと流行ると思ったんだがね」
「今じゃ、中学生でも全世界に簡単に高画質で配信できて、あわよくばあぶく銭で一儲けって時代さ。時は流れた」
「十五年前に今の仕組みがあってくれたら、俺も何か出来たかもしれんけどな。ヒカナントカより先にアイドルになっていたかもしれん」
「何を夢みたいなこと言ってるんだい。年寄りの皮算用ほど侘しいものはないって話だぜ。じゃあ、今日はこの辺にしとこうや」


2021/06/03
「最近、新しいおもちゃを買ったらしいじゃないか」
「まあね、読書専用端末のキンドルを入手したよ。前々からアマゾンの青空文庫を読みまくりたいとは思っていたんだがね。スマホでもタブレットでもパソコンでも何かしっくりこなくてさ」
「電子書籍が出てきた当初は、これでもう積読タワーに部屋を占拠されることはなくなるんだと心躍ったもんだったけど、存外そっち方面には流れなかったな。何だろうね、あの紙の本の柔らかさがないのが駄目だったのかな。手に取った時のたわむ感じとかさ。ページを開く、どのくらいまで進んだかと天面を見る、そんな動作がないと読書って感じがしないのかもしれないな」
「それで、だ。iPod touch を手に入れてから、また音楽のある生活が復活したじゃないか。その法則が読書でも成り立ちやしないかと思ってね。専門の端末だったら、より良く読書に集中できるんじゃないかなと踏んだわけさ」
「なるほど。それで、結果どうなったい」
「うむ、まだちょっと触ったくらいなんでね。今読みかけの紙の本を消化してから本格的にということになると思うんだけど。とりあえず、谷崎とか乱歩とかをダウンロードしまくってるところさ。それから、パソコン上でブックマーク代わりに入手しまくってたサンプルが邪魔でね。これをリストから削除するのにも手間取ったな」
「アマゾンのコンテンツ管理ページの使いにくさと言ったらないよな。動作は重いし、ファイル管理機能も貧弱ときた。あれではとてもヘビーユースには耐えんと思うんだがね」
「端末自体の動作もちょっともっさりしてるかな。まあ、アイテムの整理が済めば後は読む方に集中できるんで、それほど気にはならないかなとは思ってるけど。上位版を買えばもうちょっとサクサク動作してくれるんだろうか」
「ペーパーホワイトモデルか。無線が繋がらないというレビューがちらほらあったのがちょいと気になったね」
「ま、現状はそんなところさ。乱歩に太宰や谷崎、日本古典探偵小説の重鎮の面々などなど、垂涎のアイテムには事欠かない。青空文庫から手作業で PDF に変換したものをアマゾンのクラウドに放り込むこともできるし、長いこと遊べそうではあるよ」
「ふむふむ、不眠症気味の君にはいいお友達じゃないか。いや、むしろ禁断の実か? まあ、宵っ張りが悪化しないようほどほどにな。じゃあ、今日はここまで」


2021/05/15
 彼女が感じた屈辱や恐怖を思うと、血が湧き立って今日も眠れない。


2021/04/06
「サキの小説にはよく子供たちが登場するんだけどさ。これがまた電車の中で飛び跳ねて騒いでるような類の、いかにも”子供らしい”連中でね。読んでると思わずにんまりとしてしまうわけなんだけど、それで思い出したのがカフカの描く子供たちでさ。あれも、何というか、リアルなんだよな。理想化されて、嫌に道徳的に描かれたりすることもよくあると思うんだけど、カフカのそれは何というか、素っ気ない他者としてプレーンにそこにいるという感じでね。別に大筋に大きく絡んでくることはないんだけど、妙な生々しさがあるんだ。カフカは多分、そのあたりは自覚的だったと思うんだけどね。つまり、子供を積極的に小説内で動かそうとすると、結局は虚像になってしまうということについて」
「なるほどね、それは”子供”に限らず、俺はいつも感じてることさ。何かを書いていると、結局”良い話”とか”風刺”とかでまとめようとしてしまう。それはそれでありと言えばありなんだけど、それをしてしまうと射程距離が確定してしまって、大概こじんまりとしたもので終わっちまうんだ。それに、俺が思いつく程度のものならもう誰かがすでにやってるよといった程度の物にしかならないしな」
「風刺とかパロディは、ある意味じゃ楽と言えば楽なんだな。敵がはっきりしているし、書き終えると”何かしてやった”という感触も得られる。でも、それは目の前の小さな餌に飛びついてしまっているだけのような気もする。それに、風刺先の存在が前提になっていて、作品として自律していないとも言える。何か言いたいことがあるなら、直接言えばいいのであって、何も小説などを通して回りくどくやる必要はないじゃないか。そもそも、小説ってのは啓蒙や風刺のための道具に限定されるようなものではないはずだ。まあ、直接何か言ったら殺されるような社会がなかったわけじゃないから、そういう表現が意味を持っていた時代は確かにあったかもしれないけど」
「ペンは剣よりも強しと言いたいところだけど、ブルガーコフとか読んでるとそうも言ってられないよな」
「かつて南米の軍事政権下で次々と市民が行方不明になったという話も怖いし、ロシア絡みでは未だにいろいろきな臭い話がある。表現が必然的に戦いであるような世界もまだまだありそうだ」
「やれやれ、久し振りに「イマジン」が聴きたくなるね」
「違った意味で「ヘルプ!」とも叫びたいところだな。じゃあ、今日はここまで」


2021/03/25
「それだけポピュラーミュージックが歴史を重ねてきたということでもあるのだろうけど、著名なミュージシャンの訃報に接することが本当に多いよね。先日もチック・コリアが亡くなった」
「うむ、彼なりに永劫への回帰を果たしたのだろうか。物は壊れる、人は死ぬ」
「で、その後のいろいろな反応を見たり聞いたりして感じたのだけど、何か妙にエクスキューズする人が多いというかな。”私はそれほど熱心な彼のファンというわけではありませんが”みたいな断りを挟む人がずいぶん多いなって思ったんだよね」
「そう言われてみると、誰もが知ってるチック・コリアだけども、”私は彼しか聴きません”みたいなマニアックな人はそんなに見当たらない気がするな。ほら、エヴァンスとか、モンクなら、そんな人がゴロゴロいそうじゃないか」
「やってる音楽も幅広くて、一つことを極めるという人ではなかったと思うしね。それでも、今日も世界中のジャズフェスやライブハウスで「スペイン」が演奏されているに違いない。僕だって、あのフレーズをいつかは弾いてみたいと思ってるくらいだ。そういう意味ではジャズ界の大きなアイコンの一人ではあっただろうし、コアなファンじゃなくても近くのジャズフェスにでも来ていたらちょっと見てみたいなって気にさせる、そんなリスペクトのされ方をしてきたんじゃないかな」
「まあ、俺達もジャズ研とかにいたことがあるわけじゃないから、もしかしたらカルトなファンも大勢いるのかもしれないけど。まさしく俺自身も”それほど熱心なファンというわけではありませんが”、こうして彼について語っているわけだし」
「そうだね、ファーストアルバムを昔図書館で借りて聴いたくらいかな。あとはプライムミュージックでもちょろちょろつまみ食いしてたことはある」
「コリア功徳が足りないね。俺達には永劫回帰は無理そうだな」


2021/03/17
「オンライン講義の「相対性理論(その1)」によるとだね、相対性理論で最も重要なことは、光速が有限であるということらしい。そこで思ったわけなんだが、もし光速が無限大だったら、すべての光が一瞬であらゆる方向からやってきて折り重なるので、結局すべて真っ白になって何も見えなくなるんじゃないか」
「ふむ、だとしたらそれって視覚情報として役には立たないよな。視差も無くなるから、距離も測れない。というか、あらゆるものが見えると逆にそれは何も意味しないことになる」
「無限の距離から無限の情報が一気に網膜に入ってくるからな。目が焼き切れるかもしれん」
「とすると、生物は光ではなく別のものを使って視覚を発達させることになるかもしれない。例えば、音波とか」
「エコーロケーションがメインになるわけか。それは一体どんな世界になるのだろう?」
「光に比べるとだいぶ遅いからな。ちょっと先のものが”見える”まで少しタイムラグがあるような感じかもしれない」
「何をするにも大分のんびりとした世界になりそうだな」
「それが通常だと別に遅いとか思うこともないんじゃないかな。しかし、光速と違って、音速を追い抜くことは容易い。そうなると、高速で移動している時はどんな景色が見えるんだろう。返ってくる音波を全然拾えなくなるから、進行方向以外は真っ暗になっちまうのかな」
「それに空気とか媒質がないと見えない。宇宙では音波に頼れない。う〜ん、外宇宙への進出は厳しくなりそうだ」
「それに加えて、音波を視覚に持っていかれたとしたら、現状の音声コミュニケーションは何によって代替されるのか」
「何か、他に波的なものあったっけ、この世の中」
「地面の振動を使うようになるかもしれないな。タップダンスのような言語が出来るかも。足の裏が耳のような役目を果たすようになったりさ。象がやってるとかいうやつだ」
「エコーロケーションでは外界の「形」は分かるかもしれないけど、文章のようなものは発達しうるかな。紙に文字を書いてもその凹凸を音で判別するのは厳しいんじゃないか。粘土細工みたいなものである程度立体的なものを作ったら伝えたりできるかもしれない」
「体全体で表現できるんじゃないか。それこそ”命!”みたいなさ。とすると、文芸も舞踊芸術になってくるかもしれない」
「何にせよ、いろいろと大変そうだな。本当、光速がたった秒速三〇万キロメートルという遅さで助かったよ」
「まったくだ、こんな有り難いことはない。そう思えば、心なしかお天道様の光も優しく感じるじゃないか」
「誰だって北風にはなりたくいものさ。ところで、素人の理系話は犬も食わんそうだよ。そんなわけで、今日はここまで」


2021/03/11
『アナグラム』
「若き日の宮崎駿が共産主義に傾倒していたことを知る人であれば、『風の谷のナウシカ』というタイトルが「ゼニで買うしかないのか」の綴り替えであるという事実にも、さほど大きな驚きを覚えることはないであろう。風を切って舞う勇敢な少女の物語は、高度経済成長とともに瀰漫を極めつつあった拝金主義に対するアンチテーゼの表明でもあったのだ」というのは私が思いついたお気に入りの冗談の一つなので、真に受けないでいただきたい。


2021/03/10
「最近、『共同幻想論』を再読し始めたんだがね。この本の序文は、世に数ある序文の中でも最高にカッコいい部類に入るんじゃないかな。多分、多くの人たちはこの序文を読んで奮い立たせられるんだけど、いざ本文に入るとちんぷんかんぷんで挫折するって経験を繰り返してるんじゃないかと思う」
「有名な一節、”国家とは共同の幻想である”はその序文に出てくるんだよな。だから、俺はてっきりこの本は国家の虚妄を剥ぐような社会批判の本だと思っていたよ。だから、学生運動時代にバイブルになったのだろうってね。ところが、本文が始まるとちっともそんな話は出てこない。柳田国男のディープな解析や芥川の病跡学のようなものに出くわす。俺がこの本を知った頃もリクルート問題だのなんのっていろいろあったもんでさ。そんなこともあって腐り切った社会を滅多切りにしてくれるだろうと思って読み始めたのに、端からそんなことは論じていなかった」
「そうさね、”幻想に過ぎないんだからぶっ壊しちまえ”ってのを期待してたんだよな。ところが、それこそが吉本に対する俺の幻想に過ぎなかった。批判や告発も現世的には重要なことではあるけれど、もっと幻想そのものの理念というか、原理というか、そういうものを抉り出そうとしていたんだね」
「君は、これからバブルだなんだ、小室だ、ドリカムだって時代に七〇年代の反戦フォークを聴いて一人悶々としてた、いわば遅れてきた”怒れる若者”状態だったしな」
「そうそう、小室と言えば哲哉じゃなくて、等だよ」
「で、大ベストセラー作家のばなな女史は洟にも引っ掛けずに、親父の隆明に手を出したってわけだな」
「俺は、ばななという作家の存在は、かつて読者として熱い時代を生き、やがて出版社でそれなりの肩書を持つに至った連中の吉本への恩返しのようなものじゃないかと思ってるんだがね。まあ、それはともかく、『源氏物語論』とか『悲劇の解読』とか、論じてる対象を知らなくても、読んでると脳がぐつぐつと煮立ってくるような、あの感じが俺は好きなんだ。『共同幻想論』でも狐憑きの話なんかが出てくるけどさ、吉本氏自身も何かについて論じている時はそれこそ何かが降りてきた状態で書いてるんじゃないかという気がするよ。文体も妙に粘りっこいところがあるしさ。”ほんとう”とか”かんがえ”みたいな書き方は宮沢賢治から来てるんだろうけど」
「ところで、その”狐憑き”で思い出したんだけどさ。これって逆さに読んでも”キツネツキ”なんだよな。意外とこれはまだそれほど気づかれてないような気がするね」
「まったく、いきなり現世に引き戻さんでくれたまえよ。じゃあ、ついでに昔話をするけど、かつて”上から読んでも山本山、下から読んでも山本山”ってコマーシャルがあったじゃないか。何かの本で”もう一つ、裏から読んでも山本山”って書いてあるのを見てさ。それが結構おかしくてね」
「ははは、確かに鏡像になってるわけだな。そういや、”地球は一つ、鏡に映せば二つ”って替え歌もあったな。ああいう子供の流行りってのは誰が最初に考えるんだろうな」
「吉本氏は『共同幻想論』冒頭の「角川文庫版のための序」の中でこう書いているよ。”その意味ではこの本は子供たちが感受する異空間の世界についての大人の論理の書であるかもしれない”ってね。これも痺れるフレーズだなあ」
「ダウンタウンの松本さんがテレビで言っていた”子供の頃、ショッカーに誘拐されたくて夕方の町を意味もなくうろうろしていた”って話も大好きだね。あの人のコントも憑依型だよな。「キャシー塚本」とか「兄貴」とか、ちょっと凄すぎるよ」
「はて、繋がったような繋がらんような話だが、今日はここまでにしようか」


2021/02/28
『帰らぬ人』
「ねえ、お母さん、クラスの子たちがこぞって言うんだ、お前のお父さんは蒸発したんだぞって。ねえ、それって本当なの」
「ええ、本当よ。カレー用の鍋でやったから、十日ほど掛かったけど」


2021/02/27
「こんな記事を見掛けたんだ。「MIT Tech Review: ケンタウルス座アルファ星のハビタブルゾーンに惑星が存在か」っての」
「ほお、つまり”アルファ・ケンタウリからの客”が実在するかもしれないってことか」
「これまた随分とマニアックな本を持ち出すね。読んだことはないけど、気にはなってたな。まあ、それはさておき、今日は「地球外生命いるのいないの」ってことについてちょっと話そうと思う」
「そりゃ、いるに決まってるだろ。こんだけ宇宙が広大で、恒星がごまんとあるんだから、惑星だってやっぱりごまんとある。その中には地球によく似た星だってきっとたんまりとあるさ」
「うん、それはそうなんだ。それだけ膨大な数のサンプルがあるんだから、十分期待できるって話だよね。それに水を注すようで悪いけど、俺はある人の言ってたことがとても気になっていてね」
「そりゃ、何だい」
「つまり、この地球という今では生命に溢れた星がある。あるにはあるんだけど、この星が誕生してから四十六億年の間に、生命誕生の瞬間がたったの一回こっきりしかなかったってことなんだ。その時生まれたヤツが綿々と命をつないで今に至っている。うむ、地球は生命に適した星だというのに、何故地球のあちこちでいろんな生命の源泉が生まれなかったのだろう。そして、今新しい生命が生まれていないのは何故だろう。もしかしたら、新しい系統の生命が現在も地中深くや深海のようなところで生まれているのだろうか? ただ、条件が揃わずに、我々の目に付くまでには至らずに死滅しているのだろうか?」
「ふむ、そう言われると、今現在こんなにいい具合なのに、ただの物質が生命に変化したって話は聞かないし、実験室でいろいろこねくり回しても生命を作ることは出来ていないってのは不思議ではあるな」
「だとすると、我々の生命誕生についての確率の見積もりがちょっと甘いんじゃないかって話をその方がある場所でしていたんだよね。まあ、その人は宇宙物理学の人じゃなくて動物行動学の人なんだけど」
「まあ、宇宙人とかなんだのって話になると、多少ロマンが加味されて、希望という名のバイアスが掛かりがちかもしれないな。この宇宙に我々だけってことが確定しちゃったら、そりゃあ寂しくてたまらないよ」
「だから、そこでショックを受けないためにも、ペシミスティックな結末も予想しておく必要があるんじゃないかって思ってるのさ。もちろん、俺もいてほしいとは願ってるよ。エウロパの海にも期待してるし、炭素だけじゃなく、珪素ベースの生命もありうるとかいうじゃないか。地球の生命ですらこれだけ多種多様なのだから、宇宙規模では我々の想像を超えた”冴えたやり方”があってもいいわけだしね。”ソラリスの海”だって不可能じゃないさ」
「なるほどね。ついでに言うと、俺はソラリスで海水浴はしたくないね。何が送り付けられてくるか分かったもんじゃない」
「そいつは同感だな。俺には”ドラえもんのお面”を送ってくるに違いないよ」
「何だい、そりゃ。ずいぶん可愛いトラウマだな。まあ、武士の情けでそこは深入りしないでおくよ。じゃあ、今日はここまで」


2021/02/13
「最近、スティーリーダンの『ガウチョ』がすごくいいなあって思ってさ」
「何だよ、前は”何か雰囲気が暗いから嫌”って公言して憚らなかったじゃないか」
「実際、抜けのいいポップな曲はないんだよね。全体のテンポも若干遅めだし、アッパー系のアルバムではないことは確かかな」
「その点では『エイジャ』の方が楽しげではあるな」
「そうそう、最近もかなりヘビーローテーションしてた時期があった。演奏良し、テンポも軽いスキップのようで楽し気、「ペグ」のようなスマッシュヒットもある。スティーリーダンを知らないという人にお勧めするならこちらかな」
「で、その心変わりの理由を伺おうじゃないの」
「うん、その楽しさにちょっと飽いてきたって感じかな。今はそこまではしゃぎたくないよって。その気分にやや暗鬱な雰囲気のする『ガウチョ』がちょうどいい具合に沁みてきたってところさ」
「ずいぶん時間の掛かるスルメ作品だったな。二十年噛み続けてやっと味が出たか」
「世間的にはこれを最高傑作に挙げる人もいてさ。それはちょっと理解しかねるって感じだったんだけど、こうなってくるとよく分かるかな。ビートルズの『サージェント・ペパーズ』にも似たようなところがあって、これも俺の中で花を咲かせるまで大分掛かった。でも、一度根を下ろしてしまうと、それ以降はもう揺るぎなき存在であり続けている。個人的な好みでは『ラバー・ソウル』に軍配を挙げるけど、もし誰かにベストアルバムはどれかと問われれば、それはもう迷いなく『サージェント・ペパーズ』と答えるだろうね。これはもう感服という感覚に近い」
「誰でも知ってシングルヒット的な物は含まれてないよな。でも、確かにアルバム全体を通して味わいつくしたら、これはもう脱帽するしかないという」
「ビートルズ入門として薦めるかというとお薦めはしないな。実際、ちょっと面妖なアルバムでもある。もし薦めるとしたら、その人にビートルズ求道をする資質があるかどうかを見極めてからだね」
「ハハハ、これだからマニアってやつは面倒臭い。じゃあ、俺は”ビートルズ三周美味しい説”を唱えてみよう。まず、聴いて楽しい。アルバムのコンプリートは必須だね。ついで、コピーして楽しい。弾き語り用の簡易スコアなんかを買ってお気に入りの曲をとりあえず弾きまくる。これもあらかたやりつくした後でさらにもう一回、より精緻に細部まで正確にコピーしてレコードと同じ音を出す楽しみってのがやってくる。まあ、どんなバンドでも当てはまらんでもないがね」
「ユーチューブでビートルズの楽曲解説動画を上げているマイク・パチェリ氏とか、本当、神だよな。何故、コードをなぞるだけでは同じように弾けなかったのか、彼の動画で本当によく分かった。おまけに顔もジョンに似ているって、どこまでコピーする気やら」
「ふふふ、飼い犬は飼い主に似てくるというからな。さあ、いざ行かん、音楽の迷宮へ。道々ミノタウロスに出会って食い殺されんように気をつけてくれ給え。じゃあ、今日はここまで」


2021/02/09
「『歴史の方程式』には興味深い事例がたくさん載ってるんだけどさ。その中で特に面白いと思ったのが、ある森林公園で小さな山火事を小まめに消していたら、ある日制御不能な大火事に見舞われたって話だね」
「ほう、それはどういう理屈なんだい」
「つまり、小さな山火事が一度に燃焼可能な範囲が広大になるのを防いでくれていたってわけだよ。火事を災害と見做して徹底的に排除しようとしたら、実はそれ自体が自然の大きなサイクルの一部だったので、結局はしっぺ返しを食らうという結果になった。非常に教訓的な感じがするじゃないか」
「なるほどね。イエローストーン国立公園にオオカミを再導入したら、生態系が瞬く間に回復したっって話を思い出すな」
「増えすぎた草食動物が植物を食べ尽くしちゃって植生が貧しくなっていたのが改善されて、深々とした緑や草花が戻ってきたっていうやつだね。結局、人間のやることなんて、天の差配の前では余計なものに過ぎないのかもね」
「そう言えば、人っ子一人いなくなったチェルノブイリ原発の周辺地域に野生動物たちが入り込んでのびのび暮らしてるというな。こうなるともはやブラックジョークを通り越したメルトダウンジョークというべきか」
「そのうち突然変異を起こして特殊能力を身に付けた動物たちに反撃されるかもな。殺人キックを持ったヘラジカとか、屋内に隠れてもドアノブくらい平気で回せる器用なクマとか、カメレオンのように周囲の色に溶け込んで近づくステルストラとか」
「カンフーが得意なパンダとかな」
「それ、何か違くないか?」
「タヌキに間違えられてショックを受ける猫型ロボットとか」
「だから、それ違うってば」


2021/02/06
(フットボールアワー風に)
「あのな、俺この前あれ読んでみたねん、あの有名な奴」
「何よ」
「カフカっちゅう作家の『変身』ってやつや。お前もタイトルくらい知ってるやろ。けったいな話やで。朝目覚めたら、何と自分が巨大な虫になってたって話ですよ」
「ああ、それはラッキーやったね」
「何がラッキーですの。目覚めたら虫ですよ。ぞわぞわっとしますがな」
「でもな、考えてもみい。もし、夜中に目が覚めてやな、その時ちょうど人間から虫になる中間あたりだったらどうします」
「変な想像さすなっちゅうねん。余計に気持ち悪いわ」
「上半身だけ虫で、下半身人間とか、またはその逆とかで起きちゃったら悲惨じゃないですか。もしくはこう虫と人間がこうぐにゃっと混ざり合ったような…」
「だから、余計な想像さすなっちゅうねん。あかんわ、もう、今日寝るとき絶対思い出すわ、それ」
「そんな自分を発見したらもう寝れないじゃないですか」
「だから、何でそんなこと考えんねん、捻くれとるなあ、お主」
「で、そうなってしまった場合、寝れもしないのに段々じわじわあっと虫の部分が増えていくわけですよ、恐らく。こうなったらもう地獄ですよ」
「あかん、もう絶対夢に出る。あれや、もう久し振りに昔のビデオ見るわ、 M1 獲った時のやつ」
「そやからな、その主人公はラッキーだったってことですよ。ちゃんと全部変身してから目覚めたんですから。で、その後はどうなるんですか。ちゃんと王子様と結婚できるんですか」
「どんな話や思うてんねん、やめさしてもらうわ」


2021/02/03
「この前、『歴史の方程式』という本の話をしたよね」
「うむ。相転移がどうとか、べき乗則がどうとかってやつだね」
「そうそう。でさ、タイムロッカーというゲームの話も別の日にしたじゃない」
「何かえらく興奮してたよな。最近はどうなのさ。ハイスコアは出たのかい」
「いや、これがさっぱりでさ。十万点もなかなか行きやしないし、三百点くらいであっさり死ぬってこともしょっちゅうだよ」
「何だい、そりゃ。それじゃあ、ちっとも熟達してないようだが」
「で、思ったのよ。このプレイ回数と得点をグラフにプロットしていったら、もしかしたら先の『歴史の方程式』と同じものが出来るんじゃないかって」
「つまり、どういうことだい」
「こういうことさ。得点数が二倍になると、プレイ回数は二分の一になる。ま、この比率はあくまで仮の数字だけど。で、ある得点数の四倍を稼いでいる頻度はおおよそ四分の一になる。そんなようなことがどの箇所を切り取っても成立する、みたいなね。一万点出した回数が百回あったら、二万点の数は五十回ってことだね」
「ふむふむ。でも、どんなゲームでも長時間やり続けたらそんな分布になりはしないかな」
「どうなんだろうな。上手くなれば段々平均点が上がっていって、ある程度のところに大きな塊りを作るんじゃないかな」
「そう言われればそうかもな。やり込めばロースコアはほとんど出なくなるはずだしな」
「ところがタイムロッカーはそんな感じじゃない。”運ゲー”とはあまり呼びたくないけれど、集中力が足りない状態だとかなりそれに近くなる。よって、得点の分布は偶然に任せたものに近づいていく。そうすると”砂山ゲーム”と同じ法則が効いてくるってわけさ」
「大分穴だらけの話のような気もするけど、その理屈で言えば、ハイスコアがなかなか出ないのはそのような得点を取る頻度が絶対的に少なくなるからってことかい」
「そういうことさ。つまり、俺のせいじゃない。ゲームを始めた瞬間には、今回のプレイがどの程度まで伸びていくかは予測できない。敵の配置やアイテムを効率よく獲得できるかどうかは偶然に左右されるし、ゲーム内の法則で禁止されていないことはいつ何時起きてもおかしくない。巨大なブロックが眼前の七割を覆い隠すこともあるし、突然巨大なトラックが真正面から突っ込んでくることもある。危険度がゼロから急に百になる、そんなゲームなのさ。まあ、ユーザーに忖度せずに乱数に任せてる、そのぶっきらぼうなところが魅力と言えば魅力ではあるんだが」
「頑張った人向けのイベントとかないもんな、基本的に。もうちょっとそういう演出も欲しいとは思ったりするが。最初のアイテムはものすごく獲りやすい位置に必ず出るとかさ」
「そういう例外処理を入れてくと、プログラムが膨らんでいくだろ。今はソース自体もすっきりしてると思うんだ。それを乱したらいかんよ」
「どういう立場での発言なのかね、それは。俺はやたら演出も派手で初心者に優しいステージを用意してくれてるようなゲームもいいとは思うけどね。マッチングパズルなんかでそういうのあるだろ」
「ああいうのってクリアしやすいようなブロックをドロップしてくれたり、そういう操作が入ってる場合もあるよね。だから、楽しいけど、ちょっと何だかなって思うこともある」
「相変わらずの屁理屈王子ぶりだな。君と同一人物で助かったよ」
「さて、どちらがジキルでどちらがハイドなのかな」
「またややこしいこと言いだした。これ以上は付き合わないぞ。終了、終了」


2021/01/27
「最近、気になってることは何だい」
「そうだね、長友がちょっとまずいことになってる。それだけが原因ではないだろうけど、彼の加入以降マルセイユはなかなか勝てない。実際に失点にも絡んでるし、自慢の体幹を持ってしてもリーグアンのフィジカルには対応できていないようだ」
「日本代表サイドバック揃い踏みってのは夢があったけどなあ」
「そうだねえ、ちょっと時機を逸したかなという気はするね。マキシ・ロペスのリバプールとか、シュバインシュタイガーのマンチェスターとか、そんなのを思い出すよ」
「今後アジャストしてくるのか、それとも失格の烙印を押されてしまうのか…。正念場かもしれないね。他には?」
「海外ミステリードラマのトリックでね、犯人がアリバイ作りのために店内の防犯ビデオの映像をハッキングして録画日時を書き換えるってのがあったんだけどさ、あれだけ客でごった返してたら、誰かの腕時計とかスマホの画面とかが映り込んでそこでバレるんじゃないのって思ったね」
「なるほどね。そもそも、映像とタイムスタンプは別々に管理されてるのかね。直接映像に書き込まれてる場合は、それを修正するのはなかなか手間じゃないか。時間表示部分を他の箇所と入れ替えるなり、自分で任意の時間に上書きするなりして、その部分の背景がおかしくなってもいけないから、それも画像処理しなくちゃいけないとなると、いかなスーパーハッカーでもどえらい時間が掛かりそうだぜ。それに元の映像自体も恐らく圧縮されてるだろうから、再エンコードでもした日にゃ映像そのものが劣化してそれでバレるかもしれないし。その犯人がマッキントッシュの最上位機をどっさり買い込んでるのは間違いないね」
「まあまあ。そう息巻くなって。ドラマにおけるテクノロジーの扱いってのは世の東西を問わず大体微妙なもんだよ。画像処理でぼやけた車のナンバーが読めるようになるとか、重なった音声を分離するとか、実際今でも難しいんじゃないの」
「そういや、 AI と会話するアプリってのをこの前インストールしてみたけど、ちっとも会話にはならんかったな」
「君のことだから、定めし小難しい単語を並べて困らせただけだろ。そう言えば、昔ポストペットとかいうのがあったけどさ、ああいう手合いのも俺はどうかと思ってたね。あんな風に UI を豪華にしたところで、利用者の IT リテラシー向上という観点からするとむしろマイナスと言わざるを得ないんじゃないか。技術立国を目指すんだったら、あれではダメだよ」
「おやおや、君だって十分一言あるじゃないか。結局小言話になっちまったな。コンビニで肉まんでも買って気分転換しようぜ」


2021/01/20
「で、結局フィルポッツは買ってないのかい」
「うん、その前に本棚の未読本を端っこから消化してくことにしたよ。ちょうど、岩波版のサキ短編集が目に入ってね。ドイルとかウェルズとか、この頃の英国大衆小説ってのは気品と大衆性の塩梅がうまく噛み合っていて良いもんだね。その中に「スレドニ・ヴァシュター」という作品があってさ。何というか、子供の世界が分かってるなあって感じが大変に良かった」
「へえ、随分と変わったタイトルだな、インドの神様みたいな」
「まあ、そんなところから来てるのかもしれない。これを読んでてさ、子供の時に飼ってた犬が保健所に連れていかれた時のあの感じを思い出したよ。あの日から数日の間、本当に世界が少し緑がかったセピア色に見えて仕方がなかった。この年になって分析的に振り返れば愛着と対象喪失ってことになるんだろうけど、あの時はこの世の終わりのように感じていたよ。その感覚がこの作品にも描かれている。まあ、それがメインという話ではないんだけど、サキ自身もこれを書くことで幼少期の体験を昇華しようとしたんじゃないかなと思うね」
「一見、飄々とした語り口で読みやすいけれど、最終的には猫の舌で撫でられたみたいにざらっとした感じが残る。やれ、イヤミスだ、トンデモサイコのシリアルキラーだって作品で溢れ返ってる昨今じゃちょいとインパクト不足かもしれないけど、このくらいの洒落た感じってのは忘れちゃいけない何かかもな。ビートルズやストーンズに対するチャック・ベリーとか、マディ・ウォーター的な」
「音楽話ついでに言うと、このスレドニ・ヴァシュターっていう言葉がとても気に入ったんで、バンド名に付けたらカッコいいんじゃないかなあって思ったね。二十年早く出会ってれば、そんなグランジ系バンド作ってたかもな。作品内にもヴァシュター神に捧げる歌ってのが出てくるけど、それに曲付けたヤツ、世界中探せばどこかにいそうだね」
「そもそも”サキ”という名前自体も不思議だよな。由来は諸説あるみたいだけど」
「辛い現実を空想で乗り越える話ってのは、「スレドニ・ヴァシュター」にも出てくるんだけど、自分に違う名前をつけるってのもその手段の一つなのかもしれない。トラウマ、空想、創作、イマジナリーフレンド、この辺りは作家という人種になるような人間が多かれ少なかれ通り抜けてる領域なんじゃないか。一つ大きな谷を挟んだ向こうには、多重人格とかサイコパスとかの世界も広がってる気がするね」
「変わった名前の神を妄想した少年犯もいたっけな。彼が自分につけた名前に”サ”と”キ”が含まれてるってのはただの偶然なのかね」
「そいつはさすがにソシュールのアナグラム並みだな。ささ、今日はここまでにしよう。エロイムエッサイム、エロイムエッサイム…」


2021/01/12
「どうしたい、渋い顔して」
「女房と畳は新しいに限るとは言い条、果たして翻訳については如何に」
「どうした、どうした。古い本ばかり読んでるから遂に何か妙なものが降りてきたか」
「いやね、またちょっとミステリーが読みたいなと思って、読み逃してる古典はないかなと検索してたんだけどさ」
「コナン・ドイルはやっぱ最高だったもんな。で、何か見つかったのかい」
「例えば、『赤毛のレドメイン家』とかね。高校生の時分に一度読んでるはずだけど、中身はすっかり忘れてる」
「いいんじゃないの。オールタイムベストテンとかでも結構上位に入ってくるよな」
「昨今の名作の例に漏れず、これも新訳が出ているんだ。で、冒頭部の試し読みがオンラインで出来たんだけどさ…」
「便利な時代だよな。連城三紀彦とかそれで出会えたわけだし」
「それがさ、俺の苦手な”ぼく””わたし”の平仮名書き下しスタイルなんだよ。どうも、あれは駄目だなあ。何かピリッとしない」
「ああ、その話か。あれは何なのかね。何か翻訳業界的なガイドラインでそうするように決まっちゃってるのかな」
「”僕”とか”君”くらい漢字で書いてくれてもいいじゃないの。別に今時手で書いてるわけでもないでしょうに」
「それが気になって読むのをやめてしまった翻訳もあったよな。あれも”読みやすさ”というサービス精神の成れの果てなのかね。接客業の過剰な敬語とか、コンプライアンスに縛られて何かを大事なものを見失ってるんじゃないかとか、それに近しいものを感じるけど」
「まさかとは思うけど、文字数稼ぎとかだったら悲しいね」
「”私”なら一マスしか埋められないが、”わたし”なら三マスも進める。積もり積もれば、小説一本で原稿用紙何枚か分にはなるかもな」
「四百字いくらという計算なら、その方が稼ぎにはなる。とは言え、だよ。その原稿の価値は長さで決まるわけではないはずなんだ、理想を言えば。量じゃなくて質によって測られなければならない。しかし、それに対する一般的な基準などないし、そんなことを審査してたら時間が掛かって仕方がない」
「どうだろう、原稿の濃度を測るというのは。漢字の使用量が多くなれば、紙面は黒っぽくなってくだろ。それを画像解析して黒と白の比を出す。それがある一定水準をクリアしていれば、優れた仕事として単価も上がる」
「そこまで行くなら、単純に漢字の量を計算してもいいんじゃないかな。もしくはある程度のテンプレートをいくつか作っておいて、そのフィルターを通すと内容に適した水準で漢字にすべきところとそうでないところを直してくれるとかね。”ちょっと”を”一寸”とか”さすが”を”流石”ってのは現代では”さすがにちょっと”やりすぎだろう」
「なるほどね。で、結局『赤毛のレドメイン家』はどうなるんだい」
「旧訳版でいいかなと思ってね。中古も安いしさ」
「旧版だと平仮名多過ぎ問題は起こらないにしても、かと言って必ずしもそれが読みやすさを保証してくれるわけでもないけどな。まあ、そのあたりは個々の訳者の技量如何ってところか。しかし、本を一冊買うだけでもえらい騒ぎじゃないか。何かエネルギーの使いどころを間違ってる気がするがね」
「どうやら本を買わずに、不興を買ったようだな」
「上手いこと言ったつもりかい。とりあえず、お後がよろしいようで」


2021/01/06
「てえへんだ、てえへんだ、こいつは一大事なるぞ!」
「どうした、御仁。何事か」
「とりあえず、こいつを見てくれ」


   Youtube - Top 15 Velvet Underground Riffs


「ほうほう、君の大好きなヴェルヴェッツのリフコピー動画だね。見たところ、そんな大騒ぎするようなものにも思えんが…」
「ところがだよ、ほら、同じように弾いてみろよ。ほれ、ギターならここにある」
「どれどれ、おや、全然音が違うな。どうなってんだ」
「おら、びっくらこいただよ、こいつは全音下げチューニングになってるんだ。おいら、最初は削除防止のためにキーをずらして弾いてるのかと思っただよ。ところが、概要欄を見るってーとだな、こいつは実際にルー・リードがやっていたチューニングなんだとさ」
「へえ、それは初耳だな。するってーと、俺たちが今までやってきた自力コピーは一体何だったのさ」
「そうなんだよ、ずっと”キーは合ってると思うんだけど、何か感じ出ないなあ“ってもやっとしてたじゃん。その主たる原因がここにあったかもしれないんだよ。まさか、全音下げて弾いてるなんてことは思いもよらなんだ」
「アップ主によると、それ以外のチューニングも結構使ってるみたいだな。これは俺も長いこと気付かなかった。よくぞ解析してくれたもんだね。頭が下がるよ」
「まったくだ。まあ、これに限らず、市販のスコア本でも結構間違ってるのあったりするのがこの界隈だけど。それにしても、演奏面ではアマチュアに毛が生えたレベルと目されていたヴェルヴェッツでもこれだけ捻ったことをやってたってわけだよ。あかんわ、プロの仕事を舐めたらあかん。若かりし日の俺、”ビートルズの演奏はシンプルだから、コピーにはいいよね”だと? 顔洗って出直してこいってんだ、コンチクショウめ」
「まあ、まあ、そう興奮しなさんな。間違った転写から有益な突然変異が起こるってことも稀にではあるがないわけじゃないしさ。日本のポップスなんてそんなことの繰り返しとは言えまいか。まあ、いずれにしろ、虚心坦懐に物事に接するというのは大事かもしれんがな」
「ああ、早くタイムマシンが発明されて、昔の俺をぶん殴りに行けるようにならんかな。間違いだらけで嫌になる。もちろん、ギターだけの話じゃない」
「一体全体どんな人生送ってきたんだよ。話なら聞いてやるから、とりあえずドトールでも行くか。お前の好きなミルクレープでも奢ってやるよ」


2021/01/02
「何をニヤニヤしてるんだい」
「うへへ、ちょっと聞いておくれよ、旦那。とりあえずスクショ撮っておいたから、これ見てくれ」
「何だよ、スマホゲームかい。これがどうしたってのさ」
「昨日、久し振りにハイスコアが出せたんだよ。これまで長らくトップを誇っていた三十九万点台を大きく更新して四十八万点台を達成したのだ! 前回の更新はまだ夏の暑い盛りのことだったから、四半期の苦闘を経てようやく俺はガラスの天井を打ち破ったのだよ、ワトスン!」
「分かった、分かった。分かったからそんなに興奮しなさんな。で、これは何てゲームなんだい」
「タイムロッカーというちょっと変わったシューティングゲームでね。基本操作は画面のフリックのみ。弾は自動で連射してくれるので、そこは余計なことを考えなくていい。プレイヤーは敵に接触しないようにひたすら打ちまくったり逃げまくったりするというゲームだ。面白いのは、自機を移動させる時だけ周囲の敵も動くという仕掛けになっていて、ゼビウスとかグラウディスみたいに敵機がうようよ自律的に襲い掛かってくるっていうのじゃない。このシステムが他のゲームでは味わえない本作ならではのユニークな遊戯感覚を与えている。ただ、ずっと立ち止まってると背後から闇世界が空間もろとも飲み込もうと迫ってくるので、前身はし続けなくちゃならないという制約はある。俺は操作が難しいゲームは本当に苦手でね。ボタンが二つあるだけでもう駄目なんだ。AボタンがジャンプでBが攻撃とか、その程度でももう混乱しちゃってどっちがどっちだか分からなくなる」
「うむ、オタクが免許持ってなくて助かったよ。ペダルを踏み間違えられたら本当に困る」
「まったくだ。それに関係あるのかもしれないけど、俺は未だに右と左の判断が直感的に出来ない。右手を上げてくださいと言われても、すぐには上げられない。その前に箸を持つのはこっちだから、こっちが右だなってことを考えてる。だからと言って方向音痴かというとそうでもない。ただ、方向に名前を付けられないんだ。地図の西と東も未だにどっちがどっちかは分かってない。欧州の西にあるのが大西洋だから、左が西なんだっていちいちチェックしないと分からない」
「不思議なもんだな。野球やってて打った後三塁側に走り出したりとか、そんなことをやらかすことはない。ただ、三塁は右側ですか、左側ですかと聞かれると、いったん考えなきゃならない」
「その場その場で”あっち”とか”こっち”って感じでラベリングしてるのかなって。それを常時「右」とか「左」と名付けながら処理はしてないよね」
「だから、名付けるという行為は文化の領域で大脳辺縁系の処理なんだろうね。普段の生活の中でも当たり前に左右は判別されてるけど、そこにラベルが貼られてるわけじゃないんだろう」
「おや、何の話だったか。そうそう、タイムロッカーだよ。このシンプルな操作性のおかげで不器用なオイラでも長いことプレーできてるってわけさ」
「キャラもレトロなポリゴン調で可愛いな。ゲームってのはこういうもんだったよな、昔は」
「で、今回のスコア更新に当たって、ちょっとコツをつかんだ気がするんだ。まず第一に、最も遵守しなくちゃならない重要な鉄則は「君子危うきに近寄らず」ってことだ。ライフは一つしかないから、一発当たったらもう終わり。一応広告動画を見たり、ゲーム内で獲得するコインを使って一度だけコンティニューが出来るんだけど、とにかくそこは一発勝負の気持ちで臨まないといけない」
「そこは少し厳しすぎる気がするけどな、ライフは三つくらいほしいよ。もしくは HP 制とかね」
「いろんな敵がひっきりなしに現れるけど、それら十グループごとに青色の敵、もしくはお邪魔ブロックが一つ現れる。ただ、自機から離れた画面外の場所に出る場合もあるから必ずしも遭遇できるわけじゃないけどね。それを打ってから回収すると攻撃アイテムがランダムで一つ追加される。攻撃力が高い奴ほどレアというのはお決まりのルールだね。これはゲーム開始画面でコインを使ってあらかじめ二つまで装備することもできる」
「そうやって自機をパワーアップしていくんだね」
「そうそう。ある程度アイテムがたまってくると無双状態に近くなってくるから、なるべく早くたくさん装備したいけど、そのために無理な移動をしてリスクを高めるのは危険なんだ。だから、時には泣く泣くスルーする勇気も必要だね。そもそもこいつらは攻撃のためというよりは、自分の近くに敵を接近させないためのバリヤーとでも考えた方がいい」
「弾幕ってやつだな」
「このゲームで一番危険なのは横方向の移動で、その最中に動きの速い敵が真横から飛び込んできたりすると、これはもうノーチャンス。だから、なるべく横移動をせずに前進し続けることが大事なんだ。で、ある程度の距離を前進するとステージクリアのラインが出るから、それを超えるとボーナスが入る。ボーナスはラインごとに十点ずつ増えていくんだけど、今回はそれが二八〇〇点くらいにまで膨れ上がった。こうなると、敵をちまちま打つよりも、ラインを超える方が得点効率もよくなる。だから、遮二無二全部撃ち落としてやると気合を入れるより、安全なルートを探してライン越えを狙う方がいい。だいたい四〇回くらい前方フリックするとステージクリアだから、それをカウントしながら安全に安全に進んでいく。このやり方が今回はハマったね。後は適度に一時停止してしばらく放っておくのも大事かもな」
「シンプルな割には熱く語ったもんだな。全く凝り性というか、オタクというか…」
「こんなに面白いのに、意外とネット上では情報が少ないのはどういうわけだろうね。この認知度にはいささか義憤に近いものすら覚えるよ。他の人のスクショとか見ても五〇〇〇点とかくらいしか見当たらないしさ」
「どんだけマイスター化してるんだよ。世の中、マイクラとか、フォートナイトとか、ウイイレとか、そういうのに夢中なんだよ。やれ、オンライン対戦だ、実写と見紛うばかりのグラフィックだの、長足の進歩を遂げてるというのに、オタクときたら」
「だから、ボタンが二つあるだけでダメなんだって」
「スゴイんだか、ショボいんだか分からなくなってきたよ。じゃあ、今回はここまで」


2020/12/30
「あのさ」
「何よ」
「この前、なんちゃらベストスリーってのをいろいろ選んだじゃない」
「うん、まあ、何か最後はグダグダだったけど」
「で、思ったんだけど、本当に好きなのが三つもあるってのは基本的におかしな話なんじゃないのって」
「これまたけったいなことを言い出したぞ、心して掛かりたまえ、紳士淑女の諸君」
「好きなものが三つもあったら、思いが分散して一つ一つへの熱量が下がるんじゃないか。だから、人間はそれほど大切なものを三つも持ちうるのかってね」
「まあ、人それぞれなんじゃないの。浅く広く楽しみたい人もいるだろうし、一つことを掘り下げていきたい奴もいるだろう。オタクは後者の気質ってこった」
「そもそも、好きなものが二つあるのも、ただの保険なんじゃないか。一つのものを愛しすぎると、それに裏切られた時にきついからな。もしくは、時折目移りさせることで新鮮さを保つ効果があるとか…」
「うむ、君がしているのは趣味の話ってことでいいんだよな」
「何だよ、下手な勘繰りはよせってば。要するに、ベストスリーが決まらないのもある意味理に適ったことじゃないかと言いたかったのさ。好きなサッカー選手はリトマネンとリケルメ、好きな作家はボルヘスとナボコフ、好きなピアニストはエヴァンスとモンク。映画は『気狂いピエロ』と『ストレンジャー・ザン・パラダイス』…。これならさくさくと続けられる気がするね」
「結局最初にハマったブツから抜けられてないだけじゃないのか? 初恋を引きずってこじらせるタイプだな」
「だから、下手に話を広げるなって。そもそもだね、二と三の間には何か質的な飛躍があると思うんだ。例えば、天体物理でも二つの惑星の間の力学なら簡単に計算できるが、それが三つになると途端に難しくなるという話だぜ。何かと何かを比較するというのは、基本的に二項的なものであって、三つの中から最適解を見出すってのはちょっと直感的じゃない。三つ巴になって勝負がつかない場合もある」
「この会話形式の文章も”二人”だから成り立つんだもんな。三人の会話だとカギカッコだけじゃ誰が喋ってるのかを特定できなくなる」
「精神分析もセラピストとクライアントの二人だから成り立つんだろう。三人いたら多分気が散っていろいろ面倒臭そうだ。ここいらは吉本の言う”対幻想”なんかも絡んできそうだね。一対一の関係ってのは何か特別なものあるよ。承認欲求や自己肯定感といった人格形成の基礎的な部分を支えている気がする」
「うむ、何となく上手いこと話を逸らされた気がしないでもないが…。おやおや、コーヒーがすっかり温くなっちまったな。お前のもそうだろ、温め直してきてやるよ…」


2020/12/24
「今、面白い本を読んでるんだがね」
「ほう、何て奴だい」
「『歴史の方程式』というタイトルで、副題に”科学は大事件を予知できるか”とある。どうだい、なかなかそそるだろ」
「確かに。文系に理系的エッセンスを適切にマージしていくってのは、これから期待できる分野だと常々思ってるよな」
「そうだね。”科学者は最低の哲学を、哲学者は最低の科学を選ぶ”という金言があったけれど、これからは本当に科学的で再現可能性にも配慮したような文科系の研究ってのも出てくるんじゃないかな」
「門外漢にしちゃ大きなことを言うね。確かにソーカル事件みたいなのはご勘弁だしな。で、君が推すその本は具体的にはどんな内容なんだい」
「それがね、どうも説明が難しいんだ」
「どういうこったい。面白く読んでるんだろ」
「そうなんだが、説明してくれと言われるとどうにも困る。間違いを覚悟でチャレンジしてみるけれども、まず地震の予知は何故難しいかという話から始まるんだ」
「ほう、それはいろんなところで聞くよな。偉い先生方が何十年も取り組んできているにもかかわらず、東日本大震災はあの日突然、誰の警告もなく起きた。東海地震は起きる起きると言われ続けてるがまだ起きてない。明日かもしれないし、千年後かもしれない」
「そう。問題は何故そうなるかなんだが、それは地殻がプレートテクトニクスのせめぎあいの中で臨界状態になっていて、小さな地震が大きなものに発展するかどうかを予測できないからということになるんだそうだ」
「臨界状態か。ちょっと難しいね」
「うん、ここがどうも基礎知識の不足でうまいこと咀嚼できない感じなんだ。これも間違った解釈かもしれないが、水を冷やしていくと相転移を起こして氷の結晶を作り始めるだろ。その時、どこから結晶が大きくなって成長していくかを正確に予測できないことと、どの小さな地震が雪崩現象を起こして大きな地震を引き起こし始めるのかを予測できないことがパラレルだってことなのかな」
「うむ、何だか説明自体が長ったらしくて入り組んどるな」
「そうなんだよ、ワンフレーズでピタッといけない。”質量はエネルギーと等価である”みたいなね。この手の複雑さは進化論とかゲーム理論の本なんかを読んでる時にも感じるんだな」
「ああ、あれなあ、条件が複雑に都度都度変化していくあの感じな。甲は乙が丙すると予測して丁という行動をとるが、乙はそれを見越して回避し…みたいな」
「そうそう、ああいうのをサクサク処理できる脳味噌の持ち主が、進化した人類なのかもね。俺はどうも駄目だね、完全なシングルタスク脳だよ。腹芸みたいなことも全くできないしさ」
「カップラーメン作りながら洗濯もついでにしてると、食べ終わるまで脱水槽に入ってる連中のことをすっかり忘れてたりするよな」
「いやいや、まったく。しかし、ラーメンとか焼きそばとか、そんな話が好きだね、君は」
「三分で美味しい相転移が起きるんだぞ。素晴らしいことじゃないか」
「やれやれ、何だか腹が減ってきたよ。じゃあ、今日はここまでにするか。早速で悪いんだが、お湯を沸かしてくれないか?」


2020/12/16
「何をそんなに考え込んでるんだい」
「いやね、そんな大層なことでもないんだが、よく動画投稿サイトなんかで”なんちゃらが選ぶほんちゃらベストスリー”みたいなやつがあるじゃない」
「ベストナインおじさんとかな。それがどうしたってのさ」
「で、まあ、それにあやかってというわけでもないんだが、好きなギタリストベストスリーみたいなのを俺も考えてみたんだ」
「ほおほお、オタクがそんな悩むようなジャンルとも思えんが」
「まあ、とりあえず聞いておくれよ。まずは好きなベーシストのベストスリーだ」
「ふむ」
「第一位はもう断トツでジャコだな。今となってはバカテクベーシストがうようよいて、テクニック的には乗り越えられてる部分もあると思う。それでも、彼がいなければ世界はこうはなっていなかっただろうという意味で、マイルストーン的な存在だ。ファーストのリリースからかれこれ五〇年以上経つんだが、今でもステンレスみたいにツルツルのキラキラで全く錆びてない」
「あのタイム感はたまらんよな。あんなの後にも先にも知らんわ」
「で、第二位はフリーのアンディ・フレイザー。ベース、ドラム、ギターのシンプルな編成だけど、彼の豊かなベースラインは楽曲にポップさとカラフルさを加えていると思うね。スーパーバンドってなわけではないけれど、俺にとってはグッド・イナフ・バンドの代表格だ」
「この頃のポール・ロジャースはいいよな。フリー以降は何であんなヤッピーな感じになっちゃったんだろうな」
「で、三位に細野晴臣と行こう。「はいからはくち」のリフはベース界の「スモコン」に認定してもいいと思うね」
「ギタリストとしてもかなりお洒落な部類に入るよな。ああ、いつか「夏なんです」とかコピーしたいよなあ。未だにどうやって弾いてるのか分からんけど」
「続いては、好きなドラマー、ベストスリー。第一位はプリティー・パーディー、バーナード・パーディーだ。ジェフ・ベックのブート盤であのハイハットを聴いて以来、ずっと虜だよ。何でベックとの公式なレコーディングがなかったんだろうな。個人的にはロック七不思議のひとつだ」
「いわゆる”ダチーチー”の神様だな。スティーリー・ダンの「ペグ」あたりが有名か。後はアレサ・フランクリンのバックでの仕事とか」
「ソロ名義のアルバムも何枚か出してるけど、それは正直ゴニョゴニョ…」
「まあ、そういうタイプの人もいるわな。オタクだって前面に出てワイワイやれって言われると調子が狂うタイプだろうて」
「俺の話はさておいてだね、第二位はジョン・ボーナム。いまさら俺が何を言うまでもないだろ、この人は」
「ツェップは最高のロックバンドだけど、典型的なロックバンドではないよな。むしろ、変な曲の方が多い。パワーコードで弾ける曲もほとんどないから、ハードロックの原点とか言われるとちょっと違う気もするね。ボーナムのドラムも変態フレーズだらけらしいじゃないか」
「で、第三位はストーン・ローゼズのレニだね。ローゼズのファーストはしこたま聴いたよ。リリカルな楽曲の数々をタイトでキュートなリズムで支えていたのが、レニだ。長い沈黙の後でセカンドが発表されたが、その時にはすっかり違うサウンドになっててさ。個人的にはがっかりしたもんだよ」
「ジョン・スクワイアもギブソンの 335 からレスポールに持ち替えて、すっかりジミー・ペイジ化してたよな」
「で、その直後にレニが脱退したんじゃなかったかな。さすがに音楽性変わりすぎてて、自分の色が出せなくなってたし」
「難しいもんですな、バンドってのは」
「まあ、ここまでは割とすんなり決まったのよ」
「ベースにドラム、おや、肝心のギタリストはどうなったい」
「これが結構迷っててね。第一位はジェフ・ベック以外ありえないんだが、そこからがちょっと難しい」
「何だよ、ジミヘンとかリッチーとか、ペイジとか、いくらでもいるだろ、レジェンドのお歴々が」
「うん、でも、上手いギタリストとか、歴史的に重要なギタリストというランキングではないんだ。あくまで俺の心に引っ掛かってくるギタリストということなんだけど、とりあえず第二位に挙げたいのがオリー・ハルソールでね」
「これまたいきなりマイナーになったな、知ってる人いるのかな」
「ケヴィン・エアーズとか、パトゥ、テンペストなんかで弾いてるバカテクギタリストなんだけどさ。ハードなフレーズも弾けるし、メローな曲でもすごくいいソロを弾いたり、非常に幅広い音楽性の持ち主でさ。左利きで、背も小さくて、見た目はちょっとぱっとしないけど、ギター持たせたら天下一品なんだよ。ケヴィン・エアーズの有名なライブ盤での演奏が最もポピュラーかな。割と早くに亡くなってしまったんだけど、俺にとっては忘れがたい存在だね」
「ぐっとニッチになったなあ。彼が二位なら三位はどうなっちまうんだい」
「ここがなかなか決まらなくてね。このラインに収まるこれという人が見当たらない。ロバート・クワインがとりあえず第一候補なんだが、ちょっと狭いとこ狙いすぎてる気もするし、かと言ってここで急にリッチー・ブラックモアだの何だのってのも違う。自分がギターを弾くにあたって影響されたギタリストってのなら入ってくるかもしれないけど」
「クワインはカッコいいよな。ひたすらペンタを弾き続けた少年がそのまま大人になったような、その楽しさと手癖の狭さとラフな感じがあそこに詰まりに詰まってる。多分、ターゲットノートとかも考えたことがないんだろうけど、あそこまで行けば一つの立派な芸だよな。それにしても、そんなことで最近ずっとうんうん唸ってたのか」
「そうなんだよ、ジョン・スクワイアでも違うし、ロバート・フリップでもないし、ジョージ・ハリソン、ポール・コゾフ…、やっぱりハマらない。ハウでもハケットでもない」
「じゃあ、もう思い切ってジャズの人でも入れたら。ベースとドラムはフュージョン系の人も混じってるじゃないか」
「ジャズはジャズギタリストで選ぼうと思ったんだけど、こいつがまたちょっと難しくてね。タル・ファーロウとパット・マルティーノのワンツーフィニッシュは鉄板なんだが、もう一人がこれまた決まらない。ビレリ・ラグレーン大先生でもいいんだけど、彼はマヌーシュギタリストベストスリーに入れたいとかなってくると、人が足りない」
「面倒臭い男だね、要は三人選べるほど十分な聴き込みが足りてないってことだろ」
「バレたか。渋谷陽一にも油井正一にもなれなかった男の哀れな末路さ」
「そんなにいいもんかい。さあさあ、今日はもうとっとと寝ようぜ、明日も寒いぞ」


2020/12/09
「”死ぬのはいつも他人だ”と言ったのは誰だったかな」
「はて、サルトルだったか、デリダだったか。後で検索しよう。ところで”死”について考えたことはあるかい」
「そうさね、子供の頃、なかなか眠りに付けずに常夜灯の橙色の光を眺めながら、死んだらどうなるんだろうとか、この自分自身という意識が消えるってのは一体全体どいうことなんだろうってなことをずっと考えていたね」
「宇宙の果てには何があるのか、もし何もないとすればそれは一体どういう状態なのか、そんなことも思ったもんだ」
「宇宙の始まりとともに時間も空間も始まり、それ以前には時空すらないと物の本には書いてあるけど、どうも釈然とはしないわな」
「そうだね、デカルト的に考えれば、宇宙の外にもやっぱり空間があって我々はそれに内包されていると考えてしまうけど、そういうもんじゃないのかな」
「宇宙の曲率が負で空間が閉じてるとか言われてもよく分からんぜよ。俺たちの生きている間にスッキリした答を出してほしいもんだがね。いささか厳しい気もするけど」
「そうそう、いずれ死するは命の必定。そこでまた”死”に話題に戻るわけだけど、俺は二十代三十代の頃、自分がいつか死ぬってのが本当に怖いというか、納得しかねるというかね。せっかくこの世にこんな風に出てきたってのに、それがいつか終わらなくちゃならないなんて、理不尽なことこの上ない」
「そうだな、基本テンション下がるよな。だったら産むなとまでは言わんけど、死ぬと分かっていて生きなければならないってのは、どうも端から負け戦を強いられてるような気がしてくるよ」
「そんな時、こんな風に考えたんだ。俺より先に生まれた人たちがまだ生きてる。だから、俺の順番はまだまだ先のはずだってね。例えば、志村けんはまだ生きてる、ビートたけしはまだ生きてる、タモリもまだ生きてる。だから、俺が今すぐ死ぬってことはない」
「なるほどね。しかし、それもかなり怪しくなってきたぜ。志村さんは本当に逝ってしまった。天下のたけしもすっかり呂律が回らなくなってる。タモリさんは比較的変わらない方だけど、多分、そう見せようとしてかなり努力してるような気もする」
「慰めがいよいよ慰めにならなくなってきた。でも、不思議なことにと言うか、都合のいいことに言うか、今は己の死についての執着心も薄れてきているんだよ。だから、そんなに気にはならなくなってきた。これも良い意味での鈍感力ってやつかな」
「そう言えば、死を恐れていた頃は自分が既に四百歳くらいの老人のように思えていたな。何だかいろんなものを見過ぎてきたような気がしていた。それが最近では、何だかこの世界の複雑さや残酷さを前に戸惑っている十二歳の少年のような気持ちになってる」
「寄る年波で頭のネジが緩んできたんだろうよ。もしくは燃え尽き症候群ってやつかな。もうあんな風にあれやこれやを手当たり次第に気に病みながら生きたりは出来そうにないよ。後はこの目の前の下り坂をゆっくりと下りていくだけさね」
「登山の経験者ほど下りの方が危険だというけどな」
「お互い転がり落ちないように踏ん張っていこうぜ。じゃあ、今日はここまで」


2020/12/04
「マラドーナが亡くなったね」
「うん、享年六十歳。ちと早すぎる気がするね」
「クライフが亡くなった時とはまた違う雰囲気がある」
「そうだね、クライフはサッカー界において革命を行ったわけだけど、マラドーナはもっと大きな文脈で輝くアイコンになっているね」
「存在感がね、ちょっと桁違いではある。稀代のトリックスターとでもいうか」
「昔は日本でもアルゼンチンリーグの放送がローカル局なんかであったんだよ。ボカに復帰した初戦がラシン戦でね。スーパースターの帰還ということでボンボネラは大盛り上がりだったんだが、その時ラシンにいたある若者にハットトリックを食らって、三対四で負けちゃったんだ。彼の神通力もここまでかとちょっと思わせたよ。中盤に降りてきてひたすら前線にパスを出そうと奮闘はしていたけど、再び五人抜きが出来るような選手では当然なかった。まあ、年齢も年齢だったし」
「ほうほう。で、その神に歯向かった若造ってのは誰なんだい」
「その名をロペスと言ってな。後にバルサを恐怖に陥れるスピードスター、クラウディオ・ロペスさ。絶賛売出し中って感じで。実にギラギラしてたよ。おまけに男前でさ」
「ロペス、オルテガ、クレスポか…。あの攻撃陣にはロマンがあったね」
「日韓ワールドカップは彼らの大会になると信じて疑わなかったんだが…。直前になってコンディションを上げてきた大ベテラン、バティストゥータや、さらにはカニーヒアまでが割り込んできちゃってさ。多分、上からのマーケティング絡みのお達しがあったんだろうけど、せっかくいい雰囲気で南米予選をぶっちぎってきたその勢いが削がれる格好になってしまった」
「結局、いいところ無く予選で敗退しちゃったよな。頼みのヴェロンがイングランド移籍から調子が狂って絶不調ってのも痛かった」
「まったくだ。そのために獲得したんじゃないかって穿った見方を俺はしていたよ」
「で、その因縁のイングランドにベッカムのペナルティキックでやられ、スウェーデンにはガチガチに守られてのジ・エンド。これ以降も、南米では無双、本戦では微妙って時代が続くんだよな。メッシですらワールドカップを掲げるには至っていない」
「ペケルマンの時はもう少し行けるかと思ったけど、”僕たちユースから一緒です”的なのびのびサッカーがドイツのガチンコ”大人の事情”的サッカーに頭をこずかれたって感じだった」
「それは、ペケがコロンビアを率いてた時も感じたね。ある程度までは楽しく勝ち進めるけど、決勝トーナメントに入ると”欧州のリアリズム”に行く手を阻まれる。リケルメやハメスがビッグクラブで輝けないのも同じような理由かな」
「俺は一度ぺケルマンに日本代表を預かってもらいたかったな。若い世代にどんな変化が起こるか、それを見てみたかったよ」
「まあ、いずれにせよ、マラドーナは我々の記憶の中で生き続ける。それこそがスーパースターの証ってやつだな」
「死ぬのは当人だから、彼にとってはそんなものは何の慰めにもならないけどな。悔しいことに、俺は俺の死を悼むことが出来ない。次回はそんな話をしてみようか」


2020/11/27
「先週の『ジャズ・トゥナイト』はハービー・ハンコック特集だったね」
「そうそう、最近はちょっと二時間聴き続けるのが辛かったんだが、今回は聴き入ったよ」
「彼も実はもう八〇歳なんだな。いやはや、いつ訃報を聞いてもおかしくない年齢だ」
「縁起でもないこと言いなさんな。多分、オーガニックとかビーガンなんかにも興味あるタイプなんじゃないの。まだまだいけるよ」
「そうだな、ハービーが夜中にカップ焼きそばとか食ってる姿は想像しづらいよな」
「彼なら真夜中にシンクがべこって鳴るのを聴いてすらも新たなインスピレーションを得られるかもしれないけど」
「ジャンクフードファンク”Pe-Young”の誕生なりってか」
「くだらない話はさておき、「カメレオン」をギターでちょっとなぞっていて気が付いたことがあるんだ」
「ほうほう、拝聴しいたしましょうか」
「モーピンが吹いてるメインのリフなんだけど、自分のいつもの調子で大胆にピッキングしてると、全然感じが出ないんだよ。ちょっとでもベンドしちゃったり、リズムが揺らいだりするとダメ。かっちり音符を拍の頭に持っていかないと、あれにならない」
「へえ、ファンクってのは微妙な揺らぎがグルーブを産むもんだと思ってたけど、そういうものはないんだな」
「そうそう、その辺は鍵盤奏者の感覚でもあるのか、縦のピッチが正確というか。ギターだとどうしても押弦とピッキングという工程があるからそこにどうしてもずれが生じやすいと思うんだ。ピアノみたいに一瞬でバーンと音を出せない」
「そのずれが表現の幅を産んでるって側面もありそうだけどな」
「そうかもしれないね。で、これは鍵盤でクラシックの訓練を受けてる人間が作ったリフなんだなって思ったよ。逆にカチカチのリズムで弾くと気持ちいいんだ」
「なるほどね。ハービーのファンクナンバーには猥雑さとか、汗の匂いとかはしないけど、それもそういうことなのかな」
「大友さんの話によれば、育ちのいい人間らしい。ゲットーから抜け出すために音楽で…みたいな人ではないんだな」
「マイルスも歯医者の息子で、ボンボンだったしな」
「それから、イントロの低音リフだけど、あれはポール・ジャクソンが弾いてるのかなとずっと思ってたんだけど、ライブの演奏から察するにあれはハービーのシンセベースじゃないかな。後から入ってくるギターっぽいやつを弾いてるのがベースだと思う。この辺りもちょっと面白いと思ったね」
「スティービーの「サンシャイン・オブ・マイ・ライフ」で出だしの唄が本人じゃないってのに似てるな」
「そうか?(笑) まあ、いいや、それはともかくポール・ジャクソンは最高だね。彼のラインだけに集中しててもずっと聴いていられる」
「ゴリゴリのブイブイだよな」
「それとさ、ライブヴァージョンの「アクチュアル・プルーフ」の終わり方って、パープルの「ハイウェイスター」のそれとそっくりだと思うんだ。鍵盤をガシャーンってやって終わるんだけど、その余韻とか瓜二つだよ。ハンコックがパープル好きだったとしたら、俺としては親近感が湧くね」
「ジャズ界の重鎮という扱いになってしまいがちだけど、ポップミュージックにもずっと目配せはしてるよな。そのあたりの腰の軽さがまた魅力ではある。逆に、モンクがビートルズのカバー集を断り続けたっていう話も痺れるけど」
「俺は聴いてみたかった口なんだけどね。じゃあ、今日はここまでにしようか」


2020/11/25
「今日は何の話をしようかね」
「そうだね、ちょっとコルトレーンについて話してもいいかな」
「どうぞ、どうぞ。派手にブローしてくれよ」
「まあ、ご期待に沿えるかどうかは別としてだね。『カインド・オブ・ブルー』には二人のサックス奏者が参加しているよね」
「キャノンボール・アダレイとコルトレーンだね」
「そうそう。それでだ、例えば「ソー・ホワット」なんかでの二人のソロは随分と趣きが違って聴こえる」
「まあ、そうだな、世代的にも違うし、違うからこそ並べて使ってるんだろうね、マイルスも」
「アダレイの方は凄く流暢で余裕綽々といったプレイに聴こえる。古き良きショーマンシップというか、技術を磨いてその技芸を披露。それを見てお客は拍手喝采、お捻りも貰えて万々歳ってところだ」
「プロだねえ。ライオネル・ハンプトンの『スターダスト』なんか、その真骨頂って感じだよな。あれはあれで、郷愁感溢れるというか、そんな時代は経験してもいないのに懐かしさで涙が出そうになる。最高の一枚だ」
「翻ってコルトレーンの方だけど、彼は別にそんなことには頓着していない。音的にもブレスが漏れたり、しゃっくりみたいに跳ねたり、長いフレーズを息が切れるまで吹ききって最後は「ぶわわ」みたいなノイズで終わったりする。すると、”今俺は一所懸命、命削って吹いてるんだぞ”って感じが出てくるんだよな。メロディのその奥ある沸き立つ精神性みたいなものも含めての表現になってる。これはアダレイにはないもので、彼の時代は洒落や伊達みたいなものが美徳とされていて、そもそも音楽による自己表現が可能だなんて考えてもみなかったんじゃないかね」
「『至上の愛』なんてのはコルトレーンならではだよな。事ここに及ぶと、もはやあれはロックじゃないかと思うんだがな、「マイ・フェイバリット・シングス」のライブヴァージョンとかで、滅茶苦茶ハイテンションで長尺のインプロなんかやってるの聴くとさ」
「そうだね、ジミヘンなんかの世界に大分近い気がする。あれならロックファンも好物だと思うんだ」
「そういや、ウェイン・ショーターの『ジュジュ』なんて、そのまんまソフトマシーンだったな。よくリー・モーガンの「サイドワインダー」がジャズロックの先駆みたいに言われるんだけど、ロックサイドから見るとあれのどこにロックマインドがあるんだって気がするんだけどな」
「そうだね。それなら「モーニン」の方がよっぽどロックだと思うよ。ちょっと話は飛ぶけど、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」もロックの源流かというと、ちょっと違うんじゃないかって思うけどね」
「で、そのコルトレーンも精神世界の方に足を踏み入れすぎて、後期はアレな感じになってしまうわけだ」
「まあ、ちゃんと聴いたことがないので、何とも言いかねるけれど、それもサブカルチャーが高みを目指そうとした時に陥りやすい罠なのかもしれないね」
「自己の追求と聴衆の要求のバランスってか。まあ、これは未だに誰も解決したことがない問題なのかもしれないな」
「俺に言わせりゃ、そもそもそれは本当に”問題”なのかってね」
「お、オタクにしてはなかなか挑発的なご意見。じゃあ、今回はこの辺にしておこうか。今日のセッションはいかがだったかな、皆の衆」


2020/11/22
「健康オタクとしては最近気になってるものはあるかい」
「そうだな、随分長いことメイバランスとかクリミールみたいなのをせっせと飲んでたんだが、最近ザバスにしたら、翌朝ちょっと寝起きの具合がいい気がするね」
「ビタミンよりプロテインってか。まあ、あんたはどこからどう見ても痩せっぽちだしな。そもそも物理的にいろいろ足りてないんだろうよ」
「食が細いのも変わらないしな。炭水化物をいくら食ってもちっとも太ったことがないし。二十代で割と調子良かった時は肉ばっかり食ってたよ」
「そうだな、コメ食わないで、たんまりのキャベツと安いサーロインだけとかやってたな。胸板も今よりなんぼか厚かったっけ」
「後はそうだな、腸内環境ってことでヨーグルトはせっせと摂取しててさ。でも、どうにもいまいち効果があるんだかないんだかって感じだったんだけど、どうやらビフィズス菌が加齢とともに激減するらしいって話を聞いてさ、いつものプレーンヨーグルトにオリゴ糖を入れるようにしたんだ。そのあたりから胃腸の調子が上向いてきたような気がするよ。これなら外部から入れるより、元々自分が持ってるやつを増やせるって話だから、ずっと合理的な気がするけどね。そうすると、今までのヨーグルト探求のあれやあこれやは何だったのって、ちょっと拍子抜けもするけど」
「そもそも、ヨーグルト系の乳酸菌は日本人の体質に合わないんじゃないかって言ってる人もいるしな。漬物とか、味噌とか、そういうのを長らく食ってきたわけで」
「牛乳悪玉論とかも結構信奉者がいるみたいだし、健康問題関連はいろいろとセンシティブだね」
「まあ、俺は健康食品、健康グッズ周辺は九割九分がデマだと思っていいと思うがね」
「おやおや、なかなか過激だね。この辺りはニセ科学問題とも絡んでくるからな」
「そういや、ちょっと前までは、アサイーとブロッコリースプラウトにハマってたようだけど」
「アサイーは近所のコンビニに売ってなくてね。安く買える通販があったんだけど、そこも楽天から撤退しちゃってさ」
「時々あるよなあ、リピートしようと思ってアクセスしたら”ページが見つかりません”的なことが」
「最近、ドラッグストアでも売ってるの見つけたんで、またちょこちょこ飲んでみようと思ってる。スプラウトは今も食べてるよ。ちょっと包丁でトントンってして細かくしてからスープに入れる。有効成分は細胞内にあるって話だからね」
「人間はセルロースを分解できないってやつか」
「そうそう。ブロッコリーは親も美味いし、俺にとってはスーパーフードの一つだね。もうちょっと調理しやすいと助かるんだけどさ」
「俺は常々、草食動物のバクテリアを利用した人工胃袋をどこか作ってくれないものかと渇望しているんだがな。商品名はもう考えてある。”ハンスウ君”ってのはどうだ」
「ハハハ、それを使えば俺たちもまさしく文字通りの草食系男子になれるってわけだ」


2020/11/18
「最近どんな音楽聴いてんの、オタク?」
「俺かい。そうだな、最近はもっぱらナイトキャップ的に聴いてるんだが、ここしばらくヘビロテしてるのはハービーの『洪水』と、イーノの『ネロリ』だね」
「へえ、ハービーとか聴くようになったのかい。昔はエヴァンスとモンクさえあればよかったのにな」
「そうだね。『ワルツ・フォー・デビー』と『カインド・オブ・ブルー』があれば一生困らないと思ってたんだが。さすがにそれにも慣れてきちまって、刺激が無くなってきてたんだ。そこにハービーの「処女航海」の響きがどーんと入ってきてさ。これでエヴァンス的なものとモード的なものが俺の中で乗り越えられたような気がしたんだ」
「音楽聴くのに理屈つけなきゃ聴けないってのは昔と変わらねえんだな」
「まあな。イーノの『ネロリ』は、リリース当時は流石に音が薄すぎて”金返せ”って思ったもんだけど、今はそこがとてもいいんだ。聴くのにほとんど負荷がかからない。これは『空港のための音楽』もそうだけどな。これを聴いてる間に寝ちまうってのが最高だね。まあ、それでも寝れない時は寝れないが」
「まあ、あんたのアイドルのナボコフも不眠症の気があったらしいから、いいじゃないか」
「簡単に言ってくれるなよ。こうも寝付けないと夜が来るのが怖くなってくるんだ。ついでにいうと、『ネロリ』は基本的に短三度とフラットファイブの響きで出来ているんだけど、これはスピードを十分の一にした「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を聴いてるってことなんだよな」
「相変わらずおかしなこと言うね、あんたは。パープルとイーノを繋げて語った人間は後にも先にもあんただけだろうよ」
「そもそもアンビエントってのは『空港のための音楽』に始まり、既にその時点である意味終わっている音楽でもある。要はアイデアの提示だからな。ケージの「四分三十三秒」に対抗して、俺が「五分二十七秒」みたいな曲を作ったとしても、ただの二番煎じ野郎に過ぎないじゃないか」
「まあ、最初にやったもん勝ちではあるな」
「そういうことさ。まあ、それでも俺は『空港のための音楽』を組曲のようにも聴くことが出来る完成された作品だと思ってるんだが…。ロバート・ワイアットのピアノが素晴らしいね。エリック・サティに影響されたと思われるが、より二十世紀的というか、無菌室的というかさ」
「まあ、あれを薦めて困られたことはない鉄板の一枚だよな。力が抜けてくよ」
「後は、何だかんだでビートルズ、ツェッペリン、ジェフ・ベック…。この辺りは未だに楽しいね。フリートウッドマック、スティーリーダン、ジャコのファースト…。イエス、ジェネシス、ソフトマシーン。もう二十年くらい大勢に変化はない気がするよ。結局クラシックは未だに好きじゃないし、ソウルや R&B もリスペクトとはしてるけど、日常的に聴き込むようなことにはならなかったな。ネットラジオでも結局七〇年代ロックのチャンネルがやっぱり一番聞きやすくて落ち着く」
「俺も大体似たようなもんだな。まあ、俺もオタクも筆者の分身なんだから、当然っちゃあ当然だけどさ」
「そうだな、ネタばらしも済んだことだし、今日はこの辺にしておこうか。そう言えば、エヴァンスにも『自己との対話』ってのがあるよな。君は聴いたことあるかい」
「君がないなら、俺にだってあるはずが無かろう」
「ははは、それもそうだ。それじゃあ、『賜物』式もここでお開きだ、チャカポコチャカポコ…」


2020/11/14
『ジミ・ヘンドリックス異聞』
 セッションが終わった時、ジミはすこぶる上機嫌なようだったが、マイルスは何か思うところがありそうだなと俺は思った。随分長いこと親父とは一緒だったから雰囲気で分かる。適当な社交辞令を交わした後、ジミとその一行は他の仕事だかパーティーだかがあるってんでスタジオを出ていったよ。何しろ、今を時めくロックスター様だったからな、あちらこちらからいくらでもお呼びが掛かるってワケさ。


 それで、だ。俺が機材のチェックとかの雑用をぶらぶらとやっていたら、親父が俺を呼び止めてこう言ったんだ。「坊主、さっきのテープは後で破棄しろ。ジミ? あいつは実にクレイジーでクールなプレイヤーだが、残念なことに俺たちの畑のことについてはちっとも分かっちゃいないようだ。今日の演奏が外に漏れてみろ、あいつの末代までの恥になっちまう。今日のことはなかったことにするのが一番だ。メンバーにもそう言っておけ」


 とまあ、そういうわけで、マイルスとジミのセッション音源は今の今まで一度も世に出たことはないし、半ば都市伝説化してるって寸法さ。そこまでは君も雑誌記者ならよく知ってるだろ。ここからはもしもの話なんだが、あの日、ゴミ箱に放り込まれるはずだったリールを、シャツの下に隠してこっそり持ち出した駆け出しのエンジニアがいたかもしれないし、いなかったかもしれない。親父にばれたらどんな目に遭うか分かったもんじゃないので、そいつはそれ以降誰にも口外しなかったし、実際に聞き返すことさえなかった。ただただ自分のお宝として屋根裏にしまいこんでいたのさ。そして、自分でもそれが現実のことだったのか、自分の妄想だったのかが分からなくなっちまった。


 ところが、そいつも年をとり、娘夫婦のために家を改築することになった。何十年ぶりかで足を踏み入れた屋根裏部屋の隅っこに、あの日の日付が乱暴に殴り書きされた白い箱を見つけた時の彼の驚きようと言ったらなかったろうね。きっと彼は恐る恐るその箱を開けてみたことだろう。もしかしたら鼠に齧られているかもしれないし、こんな黴臭い部屋でまともに状態を保っているとも思えない。しかし、思いの外その箱の作りがしっかりしていて、密封度が高いと知った時、もしかしたらこれはいけるかもしれないと思っただろう。彼は中身を取り出す。ほとんど死に体となっていた再生機器を奥の奥から引っ張り出し、そのロールをセットする。スイッチを入れると軽くブーンと唸って通電していることが分かる。電気は奴らの血液だ。筐体がほんのりと熱を帯びて、その時を今か今かと待ち受けている。さあ、後はプレイボタンを押し込むだけだ…。


   ***


 私が彼の話を聞けたのはここまでである。看護師が入ってきて面会時間の終了を告げると、彼はキョトンとした顔であたりを見回した。それから私の方をじっと見つめると、「失礼ですが、どちらさまでしたかな」などと至極丁寧な口調で尋ねるのだった。


 私の知る限り、父が音楽業界で働いていたことはないし、ジャズが好きだなんて一度も口にしたことはなかった。日々衰えていくばかりの彼の心身が、時折思い出したように活発になり、様々な空想話をして彼に語らせているようであった。堅物で仕事一辺倒だと思われていた彼の中にそんなものがたんまりと眠っていたかと思うと、決して本意ではない人生を歩んできたであろうことが偲ばれた。私は、自分が今もこうして売れないライターをやっているのは、父に対する反発心がそうさせているのだと長い間思っていたが、実のところ、彼の資質をそのまま受け継いだものだったのかもしれない。


 帰りの車中から見上げた空は雲一つなく澄んでいたが、アクセルを吹かす私には一つだけ気掛かりなことがあった。子供の頃、ラジオDJに憧れていた私は父親の部屋にこっそり忍び込み、そこにあったマイクとデッキを使って勝手に自分だけのラジオ番組を録音して遊ぼうと企んだことがある。その時私の出鱈目な一人喋りを上書きしたオープンリールのテープの箱には、確かに乱暴な字で日付のようなものが殴り書きされていたのだった。私はその悪戯の成果を自分の部屋に持ち帰り、時折友達の家に持っていって聴かせては笑い転げていたのを今でもよく覚えている。楽しい盛りの子供のことだ、いずれまた新しい遊びを見つけたのだろう。そのテープもあちこち持ち歩いている間にいつしか行方が分からなくなり、私も今日の今日まで思い出すことはなかった。果たして、あのテープに元々録音されていたものが何だったのか、今となっては全く知る由もない。


2020/11/12
『幽霊』
 その年一番の冷え込みになったある晩のこと、誰もいない部屋で一人凍えながら布団にくるまっていると、不意に私の手を握るものがあった。どこの誰だかは分からぬが、やもめになったばかりの私には、例えその手が氷にように冷たかろうと、それがとても有り難かった。隣人との四方山話で聞いたことだが、随分と昔にこのアパートで道ならぬ恋に破れて自ら命を絶った女がいたという。そんな女が私を不憫に思って現れ出でたのかもしれぬ。そうやって互いの心の隙間を埋め合っているのだろうか、そんなことを思っている間にいつしか明け方を迎えた。むくりと体を起こしてみたが、部屋はいつもの如く閑として、当然誰の姿もない。ただ、微かに紫掛かった色香のようなものが、冷たい朝の空気の中に少しだけ嗅ぎ取れるような気がした。


2020/10/31
 例えば、誰かが「僕はこの弓矢であの的を得ようと思う」などと言えば「それは間違ってるよ」となるけれども、それ自体が「的を得る」という慣用表現が間違いであることを証明することにはならないんじゃないのかな。「おへそで茶を沸かすことはできませんから、その表現は間違っています」とは言わないでしょうに。


2020/10/15
 あんなにひいこら言っていた酷暑でも、今となってはあの眩しさが恋しい。もう既に寒さが身に堪える。鼻水ばかり出て、読書もままならない。


   ***


 「ペテルブルグ(上) (講談社文芸文庫) | アンドレイ・ベ-ルイ, 川端 香男里 |本 | 通販 | Amazon」


 時折、詩的な表現が過ぎたり、原語なら分かる冗談なんだろうなという箇所があったりして、いまいち意味を掴みきれないところはあるが、あまり長いことそこで立ち止まってあれこれ考えても詮無いことなので、とりあえず先に進むようにはしている。


 全体の調子は檄文にも似て、読者を煽り立てながら、ある種の自己言及も含んでおり、尊大な物腰の影で逐一自分のやり方を確認しているようなところがある。子供の時、自分の言ったことをその後でもう一回繰り返しちょっと小さな声で言う男の子が近所にいたが、表現とはまず自分の目や耳に真っ先に届くものだから、 即時的な確認やフィードバックを構造的に含んでいる。そのバッファのサイズをプロットすれば、近代から現代への小説や散文の類が一直線上に並ぶのではないか、そんな妄想をしたところで今日はおしまい。


2020/10/11
 カメルーン戦観てて思ったんだけど、現地レポートとかピッチレポートとかは、音声による割込みじゃなくて、テキストをメールか何かで送ってそれをアナウンサーのタイミングで読み上げてもらえばいいんじゃないのかなあ。あれじゃあ、中田氏が可哀そうだ。


2020/10/01
 なあ、コロコロの旦那さんよお、あんたとはもう都合三〇年近い付き合いになるけど、未だに一度も気持ちよくぺりんとめくらせてくれたためしがないってのは、いささかつれないってもんじゃないかねえ。


2020/09/30
 「野口聡一さん 来月に国際宇宙ステーションへ(2020年9月30日) - YouTube」


 しかし、考えてもごらん。もし、月にも火星にも、エウロパの氷の下にも生命の痕跡が全くなく、更にはこの広い宇宙にいる思惟的存在が我々だけで、虚空に放ったすべての問い掛けが実は全くの無益であり、スタートレックも宇宙戦艦ヤマトも完全な絵空事に過ぎないなどと証明されでもしようものなら、僕たちはどうなってしまうんだろう。夜空の向こうに広がるこの遠大なロマンを失った時、果たして種としての人類は正気を保っていられるだろうか。だから、俺は今からあまり過度に期待しすぎないようにしているのさ。


2020/09/22
 『BARAKAN BEAT』、九月二十日放送のプレイリストであれこれいう回。


18:02 WYNONIE HARRIS - GOOD ROCKING TONIGHT
 中盤の歌詞、どこか別の曲で聴いたことがあるような気がするんだけど、思い出せないな。オープニングのリフは『聖者が街にやってくる』だよね。

18:05 KOOL & THE GANG - LET THE MUSIC TAKE YOUR MIND
 確かに有名曲よりも渋くていいかも。

18:09 DONNY HATHAWAY - LITTLE GHETTO BOY
 ダニー・ハサウェイもねえ、何かまだしっくり来ない。

18:16 THE BEATLES - BIRTHDAY
 何だろうね、この圧倒的な存在感。ベースがぐいぐい、ヴォーカルもすぐそこにいる感じ、リフやメロディの楽しさ。もう、これがあればいいじゃん。

18:20 STANLEY SMITH - UP FROM THE BOTTOM
18:25 DAN PENN - DOWN ON MUSIC ROW
 何も思いつかなかったので割愛。

18:36 JACKSON 5 - WHO'S LOVIN' YOU
 本当、この頃のマイケルは比類ないと思うわ。

18:42 SHARON JONES & THE DAP-KINGS - SIGNED SEALED DELIVERED I'M YOURS
 誰が演奏しても楽しい曲。僕を包んでお届けするよ。

18:47 SUZANNE VEGA - THE FIRST TIME I SAW LOU REED'〜WALK ON THE WILD SIDE
 この番組ではルー・リードもヴェルヴェッツも聴いたことがないので、バラカン氏の「我慢リスト」に入ってるのかと思ったけど、どうなんでしょ。以前、渋谷陽一氏との対談で「プリンスはセクシャルな表現がきつくてちょっと…」みたいなことを言ってたからさ。

18:53 CANNON'S JUG STOMPERS - NOAH'S BLUES
 「泉野明(いずみのあ)」より「大戸島さんご」でしょ、やっぱり(分かる人だけ分かればよい類の発言)。

18:57 JIMI HENDRIX EXPERIENCE - RED HOUSE
 ベースの話が出てたけど、最近「ノエル・レディング」の名前がなかなか出てこなくて時には何日もモヤモヤすることがある。確かに、エクスペリエンスの中でも影は薄いし、後期はビリー・コックスが務めていたわけだし、そもそもギタリストだったそうで、映像なんか見てもそんなに上手な感じじゃない。ジャック・ブルースやジョン・マクビーなんかも既に活動していた中で、どうして彼が選ばれたのかはよく分からないけど、「デビューまで時間もないし、とりあえずルートでも弾いておいてくれよ」程度だったのかな。

19:04 SLEEPY JOHN ESTES - DIVING DUCK BLUES
 ディランがノーベル賞を獲った後、彼の歌詞を文学的に解説するような本が巷間に溢れるかと思ったけど、そうでもなかったのかな。ちゃんと調べたわけじゃないけど。

19:09 NICO - INTENSOS
 アラン・ドロンとの間に子供がいるんだよねって、そっちのニコじゃないのか。

19:17 PLAYING FOR CHANGE - MINUIT
 動画、観てみるか。

19:24 MINYO CRUSADERS & FRENTE CUMBIERO - TORA JOE
 こういうバンドが末永く活動できてこそ、その国の音楽的な底力が試されると思うんだけど、たまたま入った店でパット・マルティーノがライブやってるニューヨークとか、そんな話を聞いちゃうと、いつになったら追いつけるのか分からん。

19:31 MULATU ASTATKE & THE BLACK JESUS EXPERIENCE - MULATU
  CD じゃなくなって困るのは、盤の貸し借りが出来ないことかなあ。「これ良いから、聴けよ」みたいなのがやりにくい。サブスクやってる者同士なら「検索して」で済むと言えば済むのかもしれないけど。それでも、ジャケットとかライナーとかもないから、その点で付帯情報が不足しやすい。プライムミュージックなんかでも、せめてウィキペディアへのリンクくらい貼ってほしいんだが。

19:38 THELONIOUS MONK - DON'T BLAME ME
 背景も含めて非常に興味深い。既にジミヘンやスライも知っていたであろう高校生たちには、どんなふうに聴こえていたんだろう。拍手の様子からすると、熱烈に歓迎されているようではある。

19:56 VAN MORRISON - AND THE HEALING HAS BEGUN
 御大ご乱心の様子。実際、ミュージシャンを初め、映画・演劇などなど、いろいろ今後の在り方は考えていかなくてはならない。どうだろう、今まで岩波ホールまで行かなければ観られなかったような映画やロフトでしかやらないディープな講演などもオンラインで鑑賞できるようになれば(もちろん、それは有料で構わない)、それはそれで情報の格差が平板化されるいい契機になるようにも思うが。それが出来ないから、都会に羨望と欲望が集中していたのだ。


2020/09/14
 「JAZZ ain't Jazz | インターFM897 [ 89.7MHz TOKYO ]」


 例えば、フランク・シナトラや尾崎豊が「アイラブユー」と歌ったなら、それは正に「アイラブユー」ということが歌われているし、それが言いたいのだ(本気であれ、演技であれ)。しかし、この番組で流れているようなサウンドに「アイラブユー」という詞が載っていたとしても、それは「あなたを愛している」という直接的なメッセージにはならない。恐らくは、そのフレーズが選択されたことそのものに何かしらの意味があるのだ。


 あなたの前から「アイラブユー」とプリントされたティーシャツを着た男性が歩いてきたとしよう。それを見てあなたは自分への愛の告白だと思うだろうか。もちろん、そんなことは決してない(おめおめとそんなシャツを着て出歩くことが出来なくなる!)。我々はそれをデザインとして見做し、言語的なメッセージはいったん脇に置いておくことが出来る。


 ダンスミュージックにおける詞もそれに似たようなところがある。音像に配置された意匠なのだ。それはある面から言えば「意味を剥奪された空疎な表現」とも言えるし、また別のレイヤーから見れば「意味から自由になった新鮮な表現」とも考えられる。ジミー・ペイジの長尺のギターソロに熱いものを感じる人間もいれば、その記名性が邪魔でくどいと思う人間もいるだろう。これらは二項的な対立ではなく、可視光と赤外線のように同じ線の上にあってグラデーションを描いているものではないかと思う。


2020/09/06
 「JAZZ ain't Jazz | インターFM897 [ 89.7MHz TOKYO ]」


 録音分を鋭意消化中なんだけれども、 DJ である沖野氏が曲紹介時に使うカテゴライズの言い回しに、懐かしくも忌まわしいポストモダンの香りを感じてしまうのは僕だけだろうか。そこでつい悪い虫が働いて、「何でも沖野修也氏風に言ってみる」というのを考えてみた。例えば、「このシューマイ、ホットでソフトシューなチャイニーズリトルディッシュといったところでしょうか」とか、「この餃子ですけれども、ウェイビーなスキンに包まれたダウンサイジングなミートパイとでもいうべき一品ですね」とか。


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 「John Cage's 4'33'' performed on steel pan by Jonathan Scales 2020 - YouTube」


 得てして独自の解釈を加えたくなるアーティストという人種の業をコントロールし、オリジナルを忠実に再現することに徹したストイックな名演であると言えよう。この勇敢な試みに、我々も空打ちの拍手をゼロデシベルで盛大に送ろうではないか。


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 「639年かけて演奏される曲、7年ぶりに新しい和音 ドイツの教会で - YouTube」


 前段の動画もこのニュースがあったから作ったのかな?


2020/09/05
 『ウィークエンドサンシャイン』九月五日放送分のプレイリストにコメントしていく回。


01. War/No More Trouble / Bob Marley & The Wailers
 ライブ盤は昔よく聴いた。神というのはひたすら無力で、それ故に全能であるのかもしれない。「No Woman, No Cry」を聴くと、胸の奥がキュッと締め付けられるのはそんな逆説のせいなのだろうか。かつて、人はそれを「啓示」と呼んだのだろうか。

02. Black Man In A White World / Michael Kiwanuka
 時々思うのは、今「ワールドミュージック」と呼ばれているようなものは既に西洋音階を通過してそのフィルターで整理整頓されちゃったものであって、本当の「アフリカの音」はまた別にあるんじゃないかというようなこと。

03. I Won't Back Down / Tom Petty & The Heartbreakers
 ボブ・ディランとスプリングスティーンをミキサーに掛けて無造作に一掴みしたら出来たのがトム・ペティみたいなイメージ(つまり、全然詳しくない)。

04. Leaving Trunk / Taj Mahal
 リッチー・ヘブンスとタジ・マハールのことがごっちゃになるんだよね。ポール・バターフィールドとか、音楽的にはそっちに近いんだな。

05. Pain & Misery / Teskey Brothers
 フィルモアの無名バンドの発掘音源だよと言われたら信じてしまいそうだ。

06. Eastbound Train / Dire Straits
 日本では「悲しきサルタン」が有名すぎて、なかなか他の曲を聴く機会がない。しかし、本国ではライブをすれば必ずスタジアムが超満員になるスーパーバンドだというから、温度差が激しいな。

07. Tired Man / Albert Collins
 「ジャパン・ブルース・カーニバル」ってまだやってるのかな。

08. Loan Me A Dime / The Allman Brothers Band
 オールマンも何となく手を出さずじまいだったなあ。デレク・トラックスはスライドなしのプレイヤーがやるようなフレーズもスライドで難なくこなしちゃうってのがすごい。

09. What A Wonderful World / Eva Cassidy
 名前はどこかで聞いたことがあるような気がする(浅学で済みませぬ)。

10. Spanish Moon / Gov't Mule feat. John Scofield
 ロックばかり聴いてた頃は、ディストーションでガリガリとしたフレーズも弾くジョンスコがジャズへの入り口になるかなあと思っていたけれど、実際にジャズばっかり聴くようになった時にはタル・ファーローとかパット・マルティーノとかにハマっていったので、結局ジョンスコはちゃんと聴いてないんだよな。

11. Love The One You're With / Stuff
 この辺もあまり触ってないゾーン。コーネル・デュプリーとか面白そうだとは思ってるんだけど。

 以上、いろいろ浅薄なコメントばかりですが、大目にひとつどうぞ。


2020/09/01
 「JAZZ ain't Jazz | インターFM897 [ 89.7MHz TOKYO ]」


 今年の三月いっぱいで終わってしまった番組だが、聴きもせずにひたすら録り貯めた分が二年分ほどあるので、最近少しづつナイトキャップ的に消化している。


 この番組で取り上げていたような音楽を常日頃聴いているかというと、そういうことは全くなくて、自分で選んで聴くのはやはりオールドスクールなジャズやロックということになってしまうのだが、このような音楽が何故僕の心にあまり響かないのかというと、多分これらのサウンドが「自己表現」的ではなく、音を使った「デザイン」のようなものだからではないか、そんなことを考えている。


 例えば、すごく洒落たデザインの椅子があったとする。欲しいなと思ったり、美しいなと思ったりするだろう。では、それをルーブルに持っていって微笑むモナリザの隣に展示しうるかというと、それはちょっと筋が違ってくる。デュシャンあたりがやりそうなことではあるが、それはその椅子が「芸術作品」だからではなく、その行為そのものが「芸術とは何か」を問いかけるという「表現」になるから成立するのである。


 それでも、心地よいビートを聴いていると何も考えずに済むという意味では、ある種のリラックス効果的な機能性は持っている。あくまでも、それはサウンドによる音像のデザインであって、その背後で何事かを表現しようとしているわけではないのだ。そして、それがこの種のサウンドの用途であり、キングクリムゾンからは得られない類の体験なのである(では、「デザイン」は絶対的に「表現」ではないのか? いささか微妙な問題ではある)。


2020/08/30
 「犬と猫と終わらない夏 - YouTube」


 ペット系動画も随分とチャンネル登録してはいるが、毎回必ず観ているのはこの「cinnamon mon」さんのところくらいになっている。テロップで飾り立てたり、猫の生態を面白おかしく紹介するようなことはせずに、美しい海と山、季節ごとに変わる風の香りを、何でもないように切り取るその様は、そのこと自体に作り手の静かな詩想が込められている。よって、僕からするとこれは優れて作家的な表現物なのだ。


 この齢にもなってまだ都会への憧憬や嫉妬に心が千々に乱れることもあるのだが、こんな犬と猫のいる暮らしなら、それはそれで素敵なものだなと思えてくる(投稿者の方にはいろいろ言い分があるかもしれないけど)。


2020/08/29
 「朗読 少年探偵団(1) - NHK」


 この手の朗読番組をいろいろ聴いてはみるんだけど、俳優が担当していたりすると、僕にはどうも芝居掛かっていて、それが逆にノイズになってしまう。もっとフラットにやってほしいんだが、女性のセリフを裏声にしてみたり、オノマトペをいかにも効果音的に読み上げたりするのは、当人としては役者としての演技力の見せ所と思ってるのかもしれないけど、それは「芝居」であって「朗読」ではないと思うんだけどな。それなら複数のキャストを使って、人物ごとに声を当ててラジオドラマにでもしてくれた方がまだいい。


 バラエティ番組の過剰なテロップみたいなもので、ある意味良かれと思ってやってるのだろうし、その方が聴き易いというリスナーもいるのだろうけど、僕にはいささか興を削がれる部分がある。実際に自分で何かを読んでいる時には、頭の中であのような大袈裟な音は鳴っていない。口語と文語の間には、忘れてしまいがちだけれども、実は見失ってはいけない階層の違いというものがあるのだと思う。世にいう「言葉が乱れている」ということがあるのだとしたら、そこに最も重要な混乱があるのであって、「ら抜き」がどうだとか、「誤用」がどうだとかは、枝葉末節なことではないかと思う、


2020/08/26
 「『エノーラ・ホームズの事件簿』予告編 - Netflix - YouTube」


 やばいお、超見たいお。


2020/08/23
 こんな夢を見るくらいなら、毒虫にでも変身してしまった方がまだマシだと思えるほどの目覚めの悪い朝。


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 「Amazon.co.jp: Mpow ヘッドホン H7 bluetooth 4.0 密閉型 15時間再生 ワイヤレス ヘッドセット 40mm HD ドライバーユニット リモコン ・ マイク付」


 これの色違い(グレー)を十か月ほど使っていたのだが、睡眠中に横向きでの使用が長かったためか、右可動部がめりっと折れてしまった。この際、一つグレードを上げるのもありかと思っていろいろ探したけれども、考えた末に結局このモデルに落ち着いた。安いし、そこそこ頑丈だし、ケーブルは差し替え可能なので断線したらお払い箱ということもない。


 鳴りは全体的に軽めな気がするが、特に大きな不満はない。ワイヤレスは魅力的な機能だが、やや音質に難ありという気がしたので使わなくなった。充電も面倒だし。今回はあらかじめ可動部をビニールテープで補強し、なるべく変な圧が掛からないように注意しながら眠ることにする。


2020/08/16
 『ウィークエンドサンシャイン』八月十四日放送分のプレイリストにコメントしていく回。


01. In The Summertime / Mungo Jerry
 何となく耳にしたことがある程度。

02. Travelin' Band / Creedence Clearwater Revival
 プロコルハルムを「青い影」だけで語ってはいけないように、このバンドも有名曲だけで聞き流してはいけない。

03. 25 Or 6 To 4 / Chicago
 シカゴは何となくスルーしてたなあ。ロックにブラスはいらんだろみたいな純血主義だったから。

04. I Hear You Knocking / Dave Edmunds
 語れるほど知識なし。

05. Instant Karma / John Lennon
 『ジョンの魂』は擦り切れるほど聴いた。その他、ジョンを巡ってはいろいろ青春のこじれた思い出話もあるのだけど、ここでは割愛する。

06. Two Of Us / The Beatles
 学生時代せっせとコピーしたが、スコアをなぞる程度ならそれほど難しくはないんだけど、原曲の雰囲気にはどうしてもならない。まあ、ビートルズの曲はおしなべてそうなんだけどさ。

07. Let It Be / Aretha Franklin
 俺がアレサに開眼する日は来るのかねえ。

08. Maybe I'm Amazed / Paul McCartney
 正直、ポールのソロには心に響いた曲が一つもない。これが本当に「Your Mother Should Know」や「Martha My Dear」を書いた人と同一人物なのか。そう思うと、寂しくてしょうがないよ、俺は。ヴァージョンアップされた「Penny Lane」を聴きたいんだよ。

09. My Sweet Lord / George Harrison
 これで訴えられるのなら、もっとヤバい曲がゴロゴロあると思うけどな。

10. Bridge Over Troubled Water / Simon & Garfunkel
 S&G もまだ未開眼系アーティストの一つ。

11. Ohio / Crosby, Stills, Nash & Young
 二十歳の頃、『70年代大百科』みたいなムックに載っていたロック名盤セレクションを参考に、いろいろお勉強していたっけ。最初に買ったのが、John Mayall と CSN&Y だったなあ。

12. Love The One You're With / Stephen Stills
 ギター弾きの端くれとしては、四人の中では一番スティルスが気になるよね。アコギワークは絶品。

13. Big Yellow Taxi / Joni Mitchell
 ウッドストックでのパフォーマンスが印象的。プロテストソングだけでなく、非常に多様な作品性を持つ。そもそも、ジャコやメセニーをバックに従えてボーカルを張れるようなシンガーが他にいるだろうか。

14. Fire And Rain / James Taylor
 SSW 系は基本的にあまり深入りはしてこなかった。 JT も少し優しすぎる感じなんだなあ。

15. Uncle John's Band / Grateful Dead
 「Greatfull」ではなく「Grateful」であることを知ったのもつい最近というくらいで。

16. 1970 / The Stooges
 語れるような知識なし。

17. Speed King / Deep Purple
 バラカンセレクションの中に紛れると、さすがにちょっと大味に聞こえてしまうが、俺は好きだぞ。歌詞はオールディーズからの寄せ集めって感じじゃないのかな。「ルシール」もライブではやってるし、リトル・リチャードはルーツの一つでしょう。

18. Immigrant Song / Led Zeppelin
 そもそもツェッペリンは HR なのか問題。

19. If / Pink Floyd
 その昔、録音機能付きのウォークマンとラジカセを使ってツートラック録音でコピーしたりしてた。 MTR という便利なものがあるだなんて、まだ知らなかったのである。そもそも軽音系のサークルとかにいたわけじゃないから、何かと自己流でこれまでやってきた。

20. Cat Food / King Crimson
 僕は『太陽と戦慄』原理主義者なので、あまり初期クリムゾンが得意じゃない。

21. Knife-Edge / Emerson, Lake & Palmer
 ファーストと『展覧会の絵』はよく聴いたけど、それ以外はいまいちハマらなかったなあ。少人数でエレクトリック室内楽的な雰囲気のものが好きなんだろうな。『頭脳改革』とかちょっと大仰過ぎて、逆に冗談のように聞こえる。

22. Sanctuary / Miles Davis
 このアルバムはもう二十年以上俺を悩ませ続けている。良いのか、悪いのか、凄いのか、適当なのか。何度も挑戦と敗北を繰り返しながら、いつかは征伐してやろうと思い続けているのだけど。

23. Black Magic Woman/Gypsy Queen / Santana
 曲とは関係ないけど、レニクラのバックでも叩いたことのあるシンディ・ブラックマンとサンタナが結婚していたのには驚いた。ステージ上でサプライズプロポーズをする動画が某所にも上がっています。シンディは泣いちゃうし、もう、サンタナおじさんたら、ご馳走様。

24. Thank You (Falettinme Be Mice Elf Agin) / Sly & The Family Stone
 「Family Affair」が大好きなんだよね。村上春樹経由ってのがちとベタだけど。

25. Move Over (live) / Janis Joplin
 「どうしたら、アリサのように歌えるの?」と生前述べていたというけれど、俺にとってはあんたが「クィーン・オブ・ソウル」だぜ。

26. Angel / Jimi Hendrix
 時々思うんだけど、「ベース界のジミヘン」はジャコでいいと思うんだけど、「ドラム界のジミヘン」って誰なんだろ。ドラムの奏法って割と早い段階で固まっていて、これという技術革新が起きにくいものなのかもしれない。バディ・リッチの方がジョン・ボーナムよりある意味すごいし。エルヴィン・ジョーンズとかが良い候補なのかな。

27. Space Captain / Joe Cocker
 ウッドストックの映画を初めて観る人は、必ず彼のステージでまず一度は腰を抜かすよね。ビートルズのカバーって大体原曲に負けるんだけど、あれはちゃんと別次元に花を咲かせたもののひとつ。

28. Spill The Wine / Eric Burdon & War
 War とかその辺も結局深入りせず仕舞い。

29. Get Up I Feel Like Being A Sex Machine / James Brown
 なるほど、「The Crunde」の元ネタはこれか。

30. Move On Up / Curtis Mayfield
 「何故、俺は黒人音楽がよく分からないのだろう」ということはずっと考えている。一つ思うのは、黒人音楽は黒人コミュニティに向けてのメッセージ機能を持っているということだ。僕はリズムやグルーブといったある意味では皮相的な面に注目してしまうので、何かもっと重要なことを受け取り損ねてしまうのかもしれない。

31. Groove Me / King Floyd
 プログレファンが飛びつきそうな名前だけど、全く関係ないのね。

32. Patches / Clarence Carter
 知識一切なし。

33. Signed, Sealed, Delivered I'm Yours / Stevie Wonder
 大好きな曲もあるけど、アルバムを通しで聴くと「ムムム…」と思ってしまう曲も多いスティービー。この曲はピーター・フランプトンがカバーしているのだけど、やはり僕にはそちらの方が色々整理されている感じがして聴きやすい。オリジナルには生々しさや迫力はあるが、ちょっと作り込みが雑にも感じる。スタジオ一発録りとか、そういうこともあるのかもしれないけど。

34. The Tears Of A Clown / Smokey Robinson & The Miracles
 そんな中では割とスタイリッシュで聴きやすいスモーキー・ロビンソン。でも、アルバム聴くとかまでは至らず。

35. I'll Be There / Jackson Five
 マイケルもねえ、大スター時代にも頑張って好きなところを見つけようとはしてきたんだけど。この頃は本当に天使の歌声だ。

36. War / Edwin Starr
 知識なし。

37. Band Of Gold / Freda Payne
 こちらも知識なし。

38. (They Long To Be) Close To You / The Carpenters
 時々聴きたくなる。でも「ベスト盤があればいいかな」的に扱ってしまいがち。美空ひばりなんかより、カレンの歌声の方が人工音声で再現しやすいような気がする。トーンが安定してるし。彼女の不在を嘆く向きには「Sinon カーペンターズ カバー」での検索をお勧めします。

39. Lola / Kinks
 キンクスはハマってもおかしくなかったタイプのバンドだけど、予算の都合上スルーしてたって感じかな。

40. All Right Now / Free
 フリーは僕にとって理想的な「グッド・イナフ・バンド」。少人数で、センスのあるベーシストがいて、楽曲もちょっと洒落ていて、ブルースべったりというわけでもない。

41. はっぴいえんど / はっぴいえんど
 個人的には「ゆでめん」からだったら、「しんしんしん」あたりを掛けてほしかったなあ。

42. Alimony / Ry Cooder
 スワンプ系もそれほど深堀してこなかったので、ライ・クーダーもよく知らないのであります。『ブエナ・ビスタ・ソーシャル・クラブ』は、いろんな意味で素晴らしい仕事だったと思います。

43. Freedom Rider / Traffic
 トラフィックもスルーしてきたアーティストの一つ。少しばかりマイナー度が高くて田舎のレンタルショップに気軽に入荷されるタイプじゃなかったので、手に取る機会がなかったんだよね。

44. Why Does Love Got To Be So Sad / Derek & The Dominos
 最初にアルバムを聴いた時はガチャガチャしすぎている気がして、あまり好きにはなれなかったんだけど、何度か聴いているうちに「恋する男(エリック)のテンション」に段々ほだされていって、最終的には愛聴盤になった。つまり、人は恋すると馬鹿(=ロマンチスト)になるんだ。

45. Homework / J. Geils Band
 ジャイルスバンドとスティーブミラーバンドがごっちゃになるんだよね、フルネーム系バンドって括りで。あと、エリック・ジョンソンとロベン・フォードとマイク・スターンもごっちゃになる(各々のファンの方々、申し訳ありません)。

46. Border Song / Elton John
 エルトンはどうも声質が好みじゃなくて入れなかったなあ。

47. Caravan / Van Morrison
 ヴァン・モリソンもこの番組でくらいしか聴いてないな。これも田舎のレンタルショップには流れてこない組。


 ハイ、お疲れさまでした。


2020/08/13
 「ボルヘス詩集 (海外詩文庫) | ボルヘス, Borges, J.L., 直, 鼓 |本 | 通販 | Amazon」


 「全と無」、「ボルヘスとわたし」、この二編は、前者はシェイクスピアについて、後者は(そのタイトルが示す通り)ボルヘス自身についての小文だが、ほぼ同じテーマを繰り返している。セルフイメージやパブリックイメージが精密になっていけば、それはやがて己自信と区別がつかなくなるだろう。そのような地点において自己とは果たして何であるか?


 もちろん、実際にはそんなことが起こるはずもないのだが、それは「アキレスと亀」のようなもので、愉快な思考実験である。精緻な帝国の地図がやがて帝国と同一になるという話も、その同音異曲であることは明らかだろう。”「ドンキホーテ」と一語一句同一のオリジナル作品を書いてしまった男”も、その同心円状にいるはずだ。


 もちろん、ボルヘスはただのお遊びとしてそんなことを考えていたわけではない。このモチーフには何か僕たちを冷やりとさせるところがあり、ある面ではカフカ的な不安とも通じているような気がする。そういえば、ボルヘスは鏡というものを忌み嫌っていたが、鏡像の中にいる自分そっくりの自分を見ていると、「俺が本物なんだ、お前は偽物さ」などとあちらが言い始めるのではないかと不安になったりしていたのかもしれない。


 その哲学的な装いに「己が己であることの寄る辺なさ」が騙し絵のように隠されているからこそ、ボルヘスは大変に魅力的な作家であると僕は思うわけである。その不安と戦うために「無限」という強力な武器が必要だったのだ。


2020/08/08
 嗚呼、哀れなるミミズたちよ。君達が意気揚々と地上に這い出た時、まさか次のねぐらに辿りつく前に己の体が干乾びてしまうほど、この無慈悲で排他的なアスファルトの海原が延々と続いていようとは、夢にも思わなかったに違いない。


2020/08/04
 これ以上野暮なものもあるまいという感じだが、ナボコフもボルヘスも意外と自作解説というものがお好きである。それに倣って、僕も今回の拙作がどのようにして書かれたかを詳述してみたい。


 まず第一章の電話のくだりを思いついた。もうずっと長いこと「魅力的なミステリーの書き出し(だけ)を考えよう」というものをちょっとしたライフワークにしていて、どうせ最後まで書くことが出来ないんだから、せめて書き出しだけでも人の心をがっちり掴めるものを書けないかということを常日頃(というほどでもないか)考えている。まずはその一環としてあのパートが出来上がった。


 今回はそこから少し欲を出してみた。果たして、あの「不可能状況」に対してどんな答がありうるだろうか。SFにするという手もある。時間の跳躍や人体複製技術によって二人が同時に存在するというパターンだ。しかし、こんなものはもう書き尽くされているだろうし、それをきちんと描き切るための知識もない。最終的にあっと驚くオチがなければならないが、そんなものはとても思いつきそうになかった。


 では、ミステリー編だ。まずは「双子」というパターンがある。しかしそれにしては瓜二つ度を高く設定してしまった気もするので、今一つ馴染まない。では「催眠術」はどうか。本当は別人なのだけれど、暗示によってそう思い込まされているというような。または、これもよくある手だろうが、総ては妻の「妄想」(竹本健司氏がお得意だ)であったという結末や、根っからの悪女による何らかの「謀略」の始まりという線もある。


 そんなことをつらつらと考えながら、結局はあんな風になっていった。最後には「ドッペルゲンガー」がテーマというよりは、「グッド・ファミリー感覚」が主要なテーマとなった。ちょっとした言い回しなどに、温かみや深い愛情を感じていただけたら、書いたものとしては冥利に尽きるというものであるが。一部猥褻な表現を含ませてしまったが、もしかしたらその部分は後でまた書き直すかもしれない。それを書き付けた瞬間には、まだこの先どうするかは決めていなかったのである。もっと二人の過去にフォーカスを持っていく可能性もあった。


2020/08/02
『パエリア』
I
「はい、もしもし、**です」
「ああ、俺だ、今羽田に着いたとこなんだがね。これからタクシー拾って帰る」
「あら、あなた、どうなさったの」
「何だい、随分な言い方だね。どうもこうもないよ、友達の旦那さんはみんなカエルコールしてくださるのよって頻りにプレッシャー掛けてきたのは君の方じゃないか。正直、俺だって照れ臭いよ、でもお前さんがあまりにもせっつくもんだから、こうして我慢してだね…」
「ええ、そうね、聞いてくださって嬉しいわ。それはそうなんですけど…」
「だったら、何だい、その煮え切らない態度は」
「ええ、つまり、その、今私が話しているのが”あなた”なのでしたら、つい今し方帰ってきて、先程からシャワー室で水音を立てていらっしゃる最中のあのお方はいったい誰なのかしら?」


II
 妻は私には過ぎた女だ。普段は亭主関白を装ってはいるが、実際の心中では敗北を認めている。少しばかり古風な育てられ方をしたので家庭に入りはしたものの、もしあのまま働き続けていれば、このご時世だ、私などよりずっと出世したに違いない。


 ライバルがひしめき合う中、私の誘いに彼女が乗るようなことがあるとはとても思えなかった。三流大の出で、大したコネもなく、口八丁手八丁でここまでどうにか渡ってきた、どうにも中身に乏しい人間だということは自分が一番よく分かっていた。初めて私のボロアパートで結ばれた夜、緊張のあまりにサクランボのように縮んだ私の一物を優しくその口に含んでくれた時のあの温もりを、私は生涯忘れることはないであろう。「俺はこの女のために生きていくんだ」、親の顔も知らないような私にそんなよすがを与えてくれた、その彼女が天女でないとしたら何であろうか。


 その彼女がさっきから頻りに不思議なことを言うのである。俺がもう帰宅しているって? じゃあ、今ハンブルグから戻ってきたばかりのこの俺はいったい何者なのか?


III
「ちょっと待て、そいつは確かに俺なのか」
「ええ、あなたのことを間違えるわけないじゃありませんか、確かにいつものあなたでした」
「じゃあ、何かい、今ここで喋っている俺は偽物か何かだっていうのかい」
「そんなことはありませんわ。声の調子といい、イントネーションといい、あなたに違いありません。あなたのことは私が一番存じ上げておりますのよ。そんな簡単に他人の振りなんて出来るものではありません」
「じゃ、じゃあ、今風呂に入ってるってやつは誰なんだ」
「それが不思議ですの。あの方もやっぱり、一点の曇りもなくあなたなんですもの」
「そ、そ、そんなの理屈に合わないではないか」
「そうなんですの、だから私もどうしたものかと…」
「ちょっと待ってくれよ、さっきから嫌に落ち着いてるじゃないか、そ、そいつが押し込み強盗か何かだったらどうするつもりなんだ」
「あら、あなたはそんなことできる人じゃありませんわ」
「何言ってるんだ、そいつが俺だっていう保証はないじゃないか」
「そう仰られても…。どこからどう見てもあなただったんですもの」
「じゃあ、こっちの俺はいったい何なんだ」
「そんな大きな声出さないでください。私ね、今とってもワクワクしてますのよ」
「ワクワク? そいつはいったい…」
「だって、あなたが二人もいらっしゃるんですから。ねえ、あなた、今夜はどちらのお相手をしたらいいのかしら。二人いっぺんは何だか恥ずかしいわ」
「何を呑気なことを言ってるんだ、お、お、俺は心配でたまらんのだよ」
「あら、今上がったみたい。せっかくですから、お二人で話されてみてはどうかしら。ねえ、あなた、ちょっと電話口まで来てくださらない?」
 私は空港のロビーでひっくり返りそうになった。少したるんだ体にタオルだけを巻いたもう一人の俺が、今まさに妻のそばに立っている、そう思うだけで私は気も狂わんばかりだった。そんな私の耳に飛び込んできたのは──


IV
「パパ、お帰り」
 それはフロリダにいるはずの純子だった。まんまと担がれた。妻が演劇部出身だということも久しく忘れていた。私はどすっとソファに腰を落とし、受話器の向こうで笑いを噛み殺しているであろう二人を想像しながら告げた。
「最初からそこにいたのか」
「そうよ、ちょっと早く休みになったから帰ってきちゃった。あっちにいても男の子がうるさいからさ」
 まったく、一丁前にしょってやがる。誰に似たのやら。
「純子」
「何? 小言なら後にしてよね」
「この際だから、ついでに一つだけ言わせてくれないか」
「何よ、パパ」
「純子なんて古風な名前を付けて申し訳なかったね」
「あら、あたしは気に入ってるのよ、嫌だわ、そんなこと気にして。いいから、早く帰ってきてよ、パパの好きなパエリア、二人で全部食べちゃうわよ」


2020/08/01
「はい、もしもし、**です」
「ああ、俺だ、今羽田に着いたとこなんだがね。これからタクシー拾って帰る」
「あら、あなた、どうなさったの」
「何だい、随分な言い方だね。どうもこうもないよ、友達の旦那さんはみんなカエルコールしてくださるのよって頻りにプレッシャー掛けてきたのは君の方じゃないか。正直、俺だって照れ臭いよ、でもお前さんがあまりにもせっつくもんだから、こうして我慢してだね…」
「ええ、そうね、聞いてくださって嬉しいわ。それはそうなんですけど…」
「だったら、何だい、その煮え切らない態度は」
「ええ、つまり、その、今私が話しているのが”あなた”なのでしたら、つい今し方帰ってきて、先程からシャワー室で水音を立てていらっしゃる最中のあのお方はいったい誰なのかしら?」


2020/07/29
 飴細工のような眼鏡を掛けた男は言った。
「あ、あ、あのね、ぼ、僕の膝にはダ、ダ、ダムがあるんだ。だ、だから、この絆創膏を、はがすわけには、い、い、いかないんだ。だだだ、だって、そ、そんなことしたら、水がぶわぁって溢れてきて、き、君も僕もさ、あっという間に、お、お、溺れちゃうからね」
 もちろん、彼の綺麗な膝には絆創膏など貼られてはいなかった。この森では不思議な人にたくさん出会う。例えば、医者のような患者や、患者のような医者だ。


   ***


 「Discovery | 無料オンデマンドでポッドキャストを聴こう | TuneIn」


 超ひも理論でお馴染みのブライアン・グリーン氏がポッドキャストにてインタヴューを受けているが、当然のことながら全編英語なので、幼少期にはピアノを習っていたらしいということくらいしか分からなかったとさ。チンパンジー研究の草分けであるジェーン・グドールのものもあるんだけど、さすがに諦めた。


2020/07/28
 その少女の中に芽生えつつあった厭世の念に確たる根拠を与えてしまったかもしれないという思いは、今でも僕に眠れぬ夜を与える。


   ***


 「ペテルブルグ(上) (講談社文芸文庫) | アンドレイ・ベ-ルイ, 川端 香男里 |本 | 通販 | Amazon」


 各々の小説にはそれ自体が持つ特別なリズムがあるということを先に述べた。これ自体は特に何を言っているというわけでもない、当たり前のことだ。では、こんなフレーズが出てきた時、人は何を思うか。


   その整った額にはふくらんだ血管が見えた。その血管の脈動は動脈硬化症のしるしだった。
   (七〇ページ)


 ある種の文脈の中でならば、このように人物を説明するくだりがあっても一向に構わないのだけれども、本作における唐突な挿入は意図的なものである(当然、本書は「難病物」などではないわけで)。どうでもいいような細部にあえて焦点を移され、読み手の集中力が一瞬宙ぶらりんとなり、それが狙いかと諒解されると、その緊張がほぐれて軽微な「おかしみ」として働く。無理くり説明するとすればそんなようなことになるのかもしれない。


 こういった遊びは、大岡昇平にもドイルにも見られない。ある意味で「無駄を楽しむ」というものだから、紙とインクをいくらか浪費してもへっちゃらだという贅沢な環境が必要なのかもしれない。その享楽の感覚は、本書を支える積極的な魅力の一つである。


2020/07/27
 しかし、こいつも太平洋の深い海を悠々と泳いでた頃には、まさか網に引っ掛けられて、ギンギンに凍らされ、やがてはぶつ切りにされて極東の島国で俺の胃袋に収まることになるとは、思いも寄らなかったに違いない(注:フィッシュバーガーを食べたようである)。


2020/07/22
 「ペテルブルグ(上) (講談社文芸文庫) | アンドレイ・ベ-ルイ, 川端 香男里 |本 | 通販 | Amazon」


 カフカ的に抽象化された近代化著しいペテルブルグと、そこから零れ落ちる人々。煌めく都市の光と影。微かに漂う革命の香り。なるほど、これは今僕たちの目の前で起こっていることでもある(ただし、残念なことに「革命を除いて」と言わねばならない)。


 細かな風景や心理の描写があるわけではない(例えば、プルースト的な)。作中に登場する馬車のように、文章自体もまた駆けている。キリル文字で読めば、その幾何学的な見た目と相俟って、より速度感を覚えるのかもしれない(平仮名の円環ぶりときたら)。僕の頭の中では前衛的なアニメ調のイメージ(「未来派」的な?)がびゅんびゅんと飛び交っている。


2020/07/15
 「ペテルブルグ(上) (講談社文芸文庫) | アンドレイ・ベ-ルイ, 川端 香男里 |本 | 通販 | Amazon」


 本作の文体は、硬質でドキュメンタリータッチの『事件』とも、ヴィクトリア朝の香気漂う『バスカヴィル家の犬』とも違う。もちろん、どんな作品にもそれ自体の韻律というものがあるわけだが、本作にも非常に特徴的なそれがある。「小説」というよりは、「詩」に近いものかもしれない。段落の区切りかたや、短い章立てなどが、独特の雰囲気を作っている。言葉遣いも戯作的なようだ。地口などもかなり含んでいそうなので、翻訳者泣かせと言えるかもしれない。


 基本的には、最初に危惧していたような読解に困る類のものではないようだ。作品はどことなく不穏な雰囲気で幕を開けるものの、それもサーカスが始まる前の照明が落とされたテント内の仄暗さのようにも思える。僕は待っているのだ──どこかそわそわした騒めきの中で空中ブランコを待つ少年のように、ここからどんな演目が始まるのかを。


2020/07/14
 某動画サイトにおいて、気になった日本語三題。


 某元エース投手の配信にて、「楽天の強さの秘訣」という言い方が妙に引っ掛かった。「強さの秘密」ならしっくり来るし、また「美しさの秘訣」といった表現はよく目にする。では、「秘密」と「秘訣」では何が違うのだろうとつらつらと考えたのである。


 思うに、「秘訣」というのは、「その主体が内的に心掛けていること」ではないか。字はちょっと違うが、「秘めたる決意」のような。例えば、「王さん、ホームランを打つ秘訣とは何ですか」とインタヴュアーに聞かれれば、彼は自らの内で会得した洞察やその論理について語るだろう。「野球チーム」は団体なので、そのような主観を持たない。それがちょっと引っ掛かっている理由のようだ。しかし、チーム全体に特定の教えが徹底されているという状態なら、もしかしたらチームも「秘訣」を持つと言えるかもしれない。「ヤクルトの強さの秘訣、それは ID 野球の徹底にある」というように。


   ***


 その二。


 某サッカー戦術系ユーチューバーの配信。最後の説明のところで「甘え以外他でもない」という文章がインサートされていたのだが、これは「甘え以外の何物でもない」と「甘えに他ならない」が混ざり合ったのか。こういう感じの微妙な混合が、じわりじわりと人口に膾炙していく例を結構目にしてきている気がする。例を出せと言われると、これがなかなか難しいのだけど。


   ***


 その三。


 某テレビ局のショートニュース配信より。「ミステリーサークルを見に行く人」を「ミステリーファン」とは言わないんじゃないかなあ。僕の感覚からすると、「ミステリーファン」はシャーロキアンや宮部みゆきとかを読んでいる人のことだ。僕ならば「超常現象ファン」とかいう表現にするかな。「オカルトマニア」だとちょっとネガティブな感じになってしまう。


2020/07/10
 麻薬の売人とリハビリセンターの運営者が同じ人物だったらどうしようと考え始めたら、空恐ろしくて眠れなくなった。


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 「生きものは動く−微小管の機能−|配信映画|科学映像館」


 古い映像だが、分子生物学の精緻にして神秘な世界を垣間見ることが出来る。ページ下方の説明を見ると、そこには何と「音楽:ブライアン・イーノ」とあるではないか。こんなところでもニッチな仕事をしていたのだなと思ったら、何てことはない、単に『空港のための音楽』の三曲目と二曲目が使われていたというオチであった。静謐なサウンドは、青く光る極小世界の映像にはよくマッチしている。そもそも、このミクロの世界に果たして「音」というものはあるのだろうかというのは、「誰もいない森で木が倒れた時…」という話にも似て、屁理屈屋の心をくすぐる問題提起ではある。


 ナレーションは若き日の草野仁氏。リンク先には興味深い作品がたくさん公開されているので、皆様も何か宝物を発見できるかもしれない。


2020/07/08
 「ペテルブルグ(上) (講談社文芸文庫) | アンドレイ・ベ-ルイ, 川端 香男里 |本 | 通販 | Amazon」


 本書はずっと長い間、中古にプレミアム価格が付いており、欲しくてもなかなか手が出せずにいたのだが、何年か前に絶版状態から解放され(講談社、グッジョブ!)、それによって在庫もだぶついたのか、一時期急激に値段が下がった。そのおかげで、僕のような人間でもこの奇書を目出度く上下二巻とも、しかも、それほど懐を傷めずに手に入れることが出来たというわけなのである。


 この作品はナボコフにも影響を与えたと言われているし、のっけからのお道化た調子には(こちらも奇書振りに関しては負けず劣らずの)『巨匠とマルガリータ』の姿も透けて見える気がする。そして、冒頭にはプーシキンが引用され、ナボコフの『賜物』でもお馴染みのロシア式の長ったらしい名前がたくさん登場し、ページを開いた先から”ロシア”的な香気が乱れ飛んできて、僕の鼻をくすぐる。


 プーシキンを読んでいて感じたことは、割と率直な「受け狙い」的書き方をしているということだった。恐らく、それは彼が普段接しているエスタブリッシュメントな文化系グループ(ある程度は彼の知人でもあるような)に向けて書いているからだ。彼らの間で称賛され、話題になることで、彼自身も直接満足を得ることが出来たのだろう。本作はもう少しアンダーグラウンドな雰囲気を持っているようだが、基本的には同じ構造を持っているような気がしている。誰も読んでくれそうもないと思って孤独の内に書くのと、誰かの目に触れることが前提となっているのでは、自ずと作品のトーンも変わってくるというものだ。


 果たして、ベールイは誰に向かってお道化て(もしくは、そのような振りをして)いるのか。そのことを確かめるために、僕はまたページをめくる。


2020/07/05
 「Youtube - 22:22 minutes of magic... | Best of Hakim Ziyech」


 僕が今まで本当に夢中になって追い掛けたサッカー選手は二人だけである。一人はフィンランドの英雄ヤリ・リトマネン。そして、もう一人が「最後の背番号『10』」と言われた男、ファン・ロマン・リケルメだ。


 若い頃にはアイスホッケーもプレイしていたというリトマネン。均整の取れた体格の背中に背負った赤字に白抜きの背番号「10」が、欧州サッカーに魅了されたての僕にはことさら大きく見えたものだ。東洋系の血も入っているのか、黒髪をなびかせて躍動する姿は「新時代のオフェンシブミッドフィルダー」のスタイルを予見するかのようだった。残念なことに、バルセロナやリヴァプールに籍を置いた時には、怪我の影響や年齢的にもピークが過ぎていたこともあり、アヤックス時代のような輝きをより大きな世界に向けて披露することはできなかった。それでも、リヴァプールファンの中には、いくつかの印象的なゴールシーンを記憶に留めている方もおられるかもしれない。「ワールドカップやユーロに出場が叶わなかった名選手」の一人として、ギグスらと並んでよく名前が挙がるのは、小さな慰めの一つである。


 リケルメという男は、決して光ある場所だけを歩いてきたわけではなかった。ボールを持たせたら天下一品だったものの(取られないんだな、これが)、欧州サッカーのトレンドとの軋轢に常に悩まされてきた。トヨタカップでレアル・マドリーを沈めてみせた時は痛快この上なかったものだ(パレルモへの超ロングフィード!)。バルセロナでは孤立無援となり、レンタル先のビジャレアルで覚醒したものの、クラブとの蜜月もそう長く続かなかった。子供が駄々をこねるようにして再びボカに戻ったが、無給どころか自ら持ち出しになるような状態だったらしい。それでも母国でのプレイを望んだ。母親との絆も強かった。南米の選手によくありそうなことである。代理人にとってはマネタイズしずらくて扱いにくい選手かもしれないが、その悩ましさも含めて現代では貴重なロマンチシズムと言えよう。


 彼らが表舞台から去って以来、そこまで思い入れを持てる選手になかなか出会えずにいた。テベス、ズラタン、ファン・デル・ファールトなどなど、気になる選手はもちろんたくさんいたのだが、何かが足りなかった。視聴環境もいろいろ変わって、年間を通してフルで誰かを追える状況でもなくなっていた。ツィエクはそんな中でも関心リストの上位に常にいる一人である。チャンピオンズリーグではイングランド勢相手でも十分活躍してきたが、リーグはまた別物であろう。あの薄い胸板で世界最高峰のフィジカル天国(地獄?)に対応できるかどうかがやや心配だが、スタンフォードブリッジでも彼の妙技をたくさん見せてもらいたいものだ。


 もう一人、アヤックスには特別な関心を持ち続けている選手がいる。その名をアブドゥルハーク・ヌーリと言うが、現在その姿をピッチの上で見ることは出来ない。あのユース時代の素晴らしい技術をトップで見続けることが出来なくなってしまったのは、本当に残念なことである。ユース時代には圧巻のテクニックを披露してきた、この世代を代表する期待の逸材であった。そのままの成長曲線で檜舞台に上がってくれば、彼こそが僕の三代目お気に入りプレイヤーとなって長い間心躍らせてくれることになっていたかもしれない。今ではベッドの上で笑顔を見せることもあるという。更なる回復を祈りたい。


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 「Youtube - New!! #42 注目のマスク新サービスと暗躍するエビデンス【デイブ・フロムのちょっと気になったニュース】」


 「暗躍するエビデンス」って何のことかと思ったが、「暗澹たるエビデンス」って言いたかったのかなあ。


2020/07/03
 「バスカヴィル家の犬 (新潮文庫) | コナン・ドイル, 謙, 延原 |本 | 通販 | Amazon」


 随分長いことやたらとアンテナだけは広げていろんな本を掻き集めてきたが、溜まるばかりの積読の山を眼前に、残念ながらそれら総てに目を通している時間はないことを悟った。だから、最近は「読まずに死ねるか!」の精神で読む本をチョイスしている次第。先般の『事件』もそうだし、この作品もその中の一つというわけである。


 そのおどろおどろしい導入部は妖気の興趣に溢れ、非常にワクワクしながら読み進めてきたものの、つとに知られた傑作短篇群の鮮やかなそれに比すると、解決の段はいささか物足りない気がしないでもない。いくら何でも依頼人にそんな危ない橋を渡らせるのもどうかと思うし、犯人は既に分かっているのだから、「凶器」としての「魔犬」という「証拠」を押さえて、その件で問い詰めればもっと簡単に落とせるのではないかと思うのだけど。そうしてしまうと、その「魔犬」のダイナミックな登場シーンが描けなくなってしまうので、クライマックスを盛り上げられなくなってしまうということはあるかもしれないが。


 その他、中途に挿入される小さな「謎」も本筋とは関係なかったりして、ちょっと期待してた姿とは違う結末を全体的には迎えたという感じが残る。とは言え、「がっかり」とか「壁本」とかいうほど大袈裟なものではなく、概ね”木の香りのする”古典ミステリーの雰囲気を堪能したと言える。そもそも、この再読の大きなテーマは、「文人としてのコナン・ドイル」や「擬古調の翻訳による名調子」に出会うことだったのだから。


   私たちはそれッと駆け出した。(二三八ページより)


 例えば、この小さい「ッ」が片仮名になっているところが妙味を出していると思うわけである。それから、蒐集狂の犯人はハンニバル・レクターの遠い先祖でもあるかもしれない。その内面が子細に語られたわけではないけれど、普段の理性的な振る舞いと隠された嗜虐的性向とのギャップという点にはなかなか考えさせるものがある。気丈な「妹」も八面六臂の活躍でホームズ達を援護するかと思ったが、そういうシークエンスはなかったので、その点は予想が外れた。


 業務連絡というほどでもないが、次の「読ま死ね」本は、ベールイの『ペテルブルグ』になる予定。難敵なので、挫折するかもしれませんが。後は『月長石』とか『時の娘』なんかもミステリー系では気になってるけど、こちらはそもそも手に入れられてない。最近は中古も高くてね。


2020/06/21
 「Youtube - セロニアス・モンク『パロ・アルト ~ザ・ロスト・コンサート』ティザー」


 モンクに関しては伝記も一冊読んだし、ライナーノーツなども随分目にしてきたつもりだったけど、このエピソードは知らなかったなあ。


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 「ボルヘス詩集 (海外詩文庫) | ボルヘス, Borges, J.L., 直, 鼓 |本 | 通販 | Amazon」


 序盤は若書きのどちらかというと可愛らしい詩も多かったが、『創造者』からの収録作品でガラッと雰囲気も変わり、広大無辺な空間を一瞬にして閉じた掌の中に封じ込めてしまうような、彼独特の詩とも散文ともつかない、老成と幻惑によって織り成された世界へと一気に飛躍する。


 そうだ、思い出した、これこそが僕がいつも彼の作品を読む度に「してやられた」と思って舌を巻く、無限大から無限小へとたった一行で遷移する時の眩暈だ。


2020/06/20
 「バスカヴィル家の犬 (新潮文庫) | コナン・ドイル, 謙, 延原 |本 | 通販 | Amazon」


 物語も佳境に入ってくる段。基本的には「信頼できる語り手」としてこの事件を書き記しているワトソンだが、「さすがにそれに気づかないはずはないだろう」という点が一つ出てくる。この冒険譚を書き記している段階では、既に事の真相を彼は知っているわけで、つまり、彼はここでは「愚鈍な探偵助手」を一時的に演じているとも言える。そうやって読者のミスリードを誘い、物語の興趣を高めようとしているのだ。


 ということは、ある種の「作為」がそこにあるわけで、その意味では探偵小説はそもそもの始まりから「信頼できない語り手」の祖型をその内部に秘めていたのかもしれない。程よい「愚者」を演じることが出来るというのは、実は「賢者」の証なのかもしれないではないか。ワトソンよ、あなたは本当はいったい「何者」なのか。


2020/06/19
 夜更けに泥の中の肺魚のような眠りから不意に覚めて、僕は気付く。自分は悪の結社と戦う厚顔の美少年間諜ではなかったのだと。救出すべきユダヤ人教授も存在しないし、ヘブライ語で書かれた謎の通信文の解読も僕には出来ないのだと。常夜灯に照らされ、橙に浮かび上がった部屋で問いかける。どうしてこの不寛容で暴力に満ちた世界に夜が明けるごとに戻って来なければならないのだろうかと。扇風機のぶぅんと唸る音だけがその答を告げているようだった。


2020/06/14
 「宮沢賢治全集〈1〉 (ちくま文庫) | 宮沢 賢治 |本 | 通販 | Amazon」


 ボルヘスの詩はつらつら読んでいると大体一篇に二つか三つくらい引用したい箇所が出てきて、それを後から辿り直してあれこれ考えたりするものなのだが、賢治の恐ろしいところは、一篇どころかほとんどすべての行で感嘆すべき表現に出会うというところである。こうなってくるとずうっと気持ちが打ち付けられっぱなしでそれが常態になり、もはやそれについて考えるのをやめ、ただあんぐりと口を開けている他はなくなる。詩の世界全般についてそう詳しいわけではないが、多分、そんな書き手は彼くらいだろうという予想はある。


   まあ あたし
   月見草の花粉でいっぱいだわ
   (「北上川は螢(*下部「虫」も「火」)気を流しィ」より)


 そんなわけで感銘ポイントが多すぎてなかなかページが進まないのだけれど、それでいいのである。賢治の作品ならば、僕は永遠に読んでいても構わない。


2020/06/12
 「バスカヴィル家の犬 (新潮文庫) | コナン・ドイル, 謙, 延原 |本 | 通販 | Amazon」


 素朴な疑問。あなたは推理小説を読む時、「探偵」側に感情移入しているのか、それとも「助手」側にしているのか。僕などは、圧倒的に「探偵」側目線で読んでいるんだけど、果たしてそれが一般的なのかどうか気になった。


 「探偵」サイドに立っているからと言って、結末を読む前に犯人が分かっているというようなことは滅多に(いや、恐らく一度も)ないので、それもどうなのかって気はする。だからと言って、ワトソン目線で読み通せるほど素直でもいられないわけだけど。


 さて、ページはいよいよ中盤を超え、ここからは事件の最中にワトソンがホームズに送った手紙をそのまま転載するという形での記述になる。文体に臨場感が加わり、報告する側のワトソンの沸き立つ気持ちと、それを冷静に読んでいるであろうホームズの気持ちを二重に追体験しながら読み進めることになる(文学における「手紙」の重要性は考えてみる価値がありそうだ)。深夜に謎の徘徊をする執事、秘かに惹かれあう美しき隣人と新領主の行く末、未だ解かれぬ謎の数々…。嗚呼、僕もすっかりバスカヴィル家の新たな住人の一人になったようだ。


 もう一つ、素朴な疑問。先の謎の女性は館から離れた隣家に兄と妹で暮らしているのだけど、アガサ・クリスティの『アクロイド殺人事件』でも重要な登場人物の一人が姉と二人で暮らしていたりして、こういうのって英国では割と普通なのかな。まあ、日本でも『三毛猫ホームズ』や仁木悦子なんかでは探偵側が兄妹だったりする例もあるけれど。


2020/06/09
 「バスカヴィル家の犬 (新潮文庫) | コナン・ドイル, 謙, 延原 |本 | 通販 | Amazon」


 バスカヴィル卿の警護と周辺の情報収集をホームズに託され彼の地を訪れたワトソンの前に、謎めいた妙齢の女性が現れ、彼にロンドンへ帰還するよう警告を発する。それは、彼をヘンリー卿と思い込んだがための行為であったが、自分も迷信に怯えてついそんなことを言ってしまったと主張する彼女に対し、あの切迫振りには何かしら隠されたものがあるに違いないと感じざるを得ないワトソンなのであった。


 事件の影に女ありと言ったらいささか安っぽい言い方になるけれども、この女性が訳あり感満載で、伏線が服を着て歩いているようにしか見えない。その気丈な立ち振る舞いからしても、この先重要な役割を演じてきそうだ(多分、善人として)。


2020/06/08
 「バスカヴィル家の犬 (新潮文庫) | コナン・ドイル, 謙, 延原 |本 | 通販 | Amazon」


 これは単に僕の贔屓目というものかもしれないけれど、今回ドイルの小説に暫く振りに触れてみて感じるのは、ホームズにしてもワトソンにしても、「君らが命、俺が自らの手でこの世に生み出した上は、中途半端なものにはしやせんぞ」という覚悟を持って描かれているなということだ。


 探偵小説の歴史も優に百年を超え、数多の名探偵コンビが僕たちを楽しませてくれた。それでも尚、ホームズ&ワトソンが恐らく世界最高のコンビであろうと目され続けているのは、ドイルが包括的にキャラクターを造形し、複雑な人物像を作り上げることに成功しているからであろう。かつて、ベイカー街の住所宛てにホームズへの手紙がひっきりなしに届いたという逸話があるが、そうさせる何かがドイルの筆にはあったのだ。


 作者にも読者にも愛されたホームズ。願わくば、すべての探偵たちがそのように生まれて育たんことを。


2020/06/06
 「バスカヴィル家の犬 (新潮文庫) | コナン・ドイル, 謙, 延原 |本 | 通販 | Amazon」


 ロンドンにて別件を抱えていたホームズは、新領主のヘンリーとモーティマー医師にワトソンを帯同させることにし、一行はバスカヴィルの領地へと向かうのであった。旅の道すがら車中で親交を深め合う彼らであったが、汽車が山間の湿地帯であるダートムアに到着する頃には、風景もいささか薄暗いものに様変わりし、ワトソンもヘンリーも得も言われぬ重々しさに苛まれながら、眠れぬ最初の夜を過ごすことになる。


 到着早々にヘンリー卿は言う。この館に電灯を並べて照らし、このうら寂しい雰囲気を一掃しみせますよ、と。なるほど、「電気の時代」はすぐそこまで来ており、「怪奇と幻想」はそれに照らされて、この世に居場所を失っていくのだ。令和の世に至っては、蔦の絡まる不気味な洋館も、青く光る魔犬も、パロディとしてしか存在し得なくなってしまった(そう、シャーロック・ホームズすらも)。


2020/06/04
 「エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する | ブライアン グリーン, Greene, Brian, 一, 林, 大, 林 |本 | 通販 | Amazon」


 よく「そんなに長生きしてもしょうがない」みたいなことを言う人がいるが、僕からすればとんでもない暴論だ。宇宙論も素粒子論もまさにこれからが面白いのに、それを見届けることなくこの世を去るだなんて、耐え難いことこの上ないではないか。僕は何千年でも何万年でも生きたいと常々願っているのだが、そのためにもデジタル化した意識をクラウドにアップロードできる日が早く来ないものかと待ち望んでいるのだよ、メーテル。


   ***


 「ボルヘス詩集 (海外詩文庫) | ボルヘス, Borges, J.L., 直, 鼓 |本 | 通販 | Amazon」


   花たちがのほほんと、優雅に生きていける理由…
   (「ラ・レコレタ」より)


 さすがにボルヘスに「のほほん」はないんじゃないかしら。学生に下訳させて、そのまんまなのかなあ、分かんないけど。


2020/06/03
 「エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する | ブライアン グリーン, Greene, Brian, 一, 林, 大, 林 |本 | 通販 | Amazon」


 後半はだいぶ専門的な数学の話になってきたりして、そうは易々と理解できはしないのだが、それでも作者の筆の快活さに釣られて、こちらもなんだか楽しくなってくる、本書はそんな作品である。彼自身もその一部であったような「ひも理論」発展期の高揚感が、文章そのものにとても明快な調子を与えているのだ。


 本作には「象牙の塔」然としたところは微塵もないし、グリーン氏は研究を離れればきっと普通の気のいい兄ちゃんなのだろう。高度な内容であるにもかかわらず、本書がベストセラーになったのも、そんなところに理由がありそうだ。


2020/06/02
 「バスカヴィル家の犬 (新潮文庫) | コナン・ドイル, 謙, 延原 |本 | 通販 | Amazon」


 カナダから急遽帰国したバスカヴィル家の跡取りになる青年がホームズの部屋へ。一族の血を引くものとして気丈なところを見せたものの、彼の宿泊先には脅迫状が届き、尾行する謎の変装男も現れ、いよいよ事態は不穏な空気に包まれてくる。尾行者の追跡に失敗したホームズは、彼がロンドン中に抱えている少年助手の一人を使って、脅迫状の切り抜きに使われた新聞を市内のホテルのゴミから探し出そうとする。


 いよいよホームズの世界を構成する様々な要素が出揃ってきた感があるが、そこはそれ、長編も三作目、ドイルとしても割とお約束のパターンを連ねることで省力化を図っているような嫌いもないではないかなあ。安心感とマンネリ感は表裏一体なものなのだ。


2020/05/31
 「バスカヴィル家の犬 (新潮文庫) | コナン・ドイル, 謙, 延原 |本 | 通販 | Amazon」


 物語は(いつものように)ある男がホームズを訪ねてくるところから始まる。彼は、友人である富豪の死が彼の地に伝わる伝説の魔獣によるものではないかと恐れ、その魔の手が後継ぎとなる青年にもいずれ伸びるのではないかと危惧しており、助言を求めてホームズの元を訪れたのであった。


 その伝説を記した先代領主の手紙が文中に登場するのだけれど、その時代掛かった文体こそ僕が本書に求めていたものであった。当の「伝説」自体は、現代の擦れた目から見てしまうととさほど怖いものとは思われない。しかし、そこはそれ、当時のロンドンっ子たちが初めてそれを目にした時の気持ちを想像しながら、やや目線を下げて楽しむのが良い。それこそ、読書を嗜む者にとっての、ささやかな慎みというものなのである。


2020/05/30
 「バスカヴィル家の犬 (新潮文庫) | コナン・ドイル, 謙, 延原 |本 | 通販 | Amazon」


 『事件』を読んでいる時は、まるで泥付きの牛蒡をガシガシと齧っているような気分だったのだが、それに比べればドイルの筆はずっとソフトでどんどんページが進む。その柔らかさの中にもちゃんとしたフックがあり、大衆的でありながらも安きに流れまいとする志の高さのようなものを感じる。それが、ドイルをして忘れがたい作家にしているのだと思う。


 今回手に入れた文庫は一度改版されたもので、僕が十六の時に読んだものとはまたちょっと雰囲気が違う。当然のことながら、その時も全部古本で揃えたので、紙も大分日に焼けていたし、押された活字のインク量にムラがあったり、随分とノイジーだったものだ。その古めかしさも蒐集の楽しみの一つであった。この版では平仮名に書き下されている箇所が随分とある気がする。もちろん、印字はどのページを開いても均等である。見た目はすっきりとしているが、懐古に浸ろうという向きにはいささか物足りない(いちいち注文が多いね、俺も)。


2020/05/29
 「バスカヴィル家の犬 (新潮文庫) | コナン・ドイル, 謙, 延原 |本 | 通販 | Amazon」


 とは言え、そもそも推理小説というものがそういうものではないのか。書き手は当然結末を知っており、読み手との情報の格差を利用して、一見すると実現不可能であるような事象を描く。最後にはその背後にあるロジックを披露して大団円。読者は目を真ん丸にし、作者は得意げに筆を置き、出版社はがっぽり儲かる。それは、すべてのミステリーが夢見る桃源郷である。


2020/05/28
 春と夏を万力で潰したような日和だった。向かいの家が引っ越したのは自分のせいかもしれないという思いを俺の頭によぎらせる程度には、今日の日差しは眩しい。


   ***


 「バスカヴィル家の犬 (新潮文庫) | コナン・ドイル, 謙, 延原 |本 | 通販 | Amazon」


 いまさら言うまでもないことだが、本作はホームズ物の長編三作目にあたり、既に国民的な人気を博していた中で発表されたものだ。ホームズとワトソンの掛け合いから始まる導入部は、手ぐすね引いて待っている読者の期待に応えてのことであり、ドイル自身もそのことをよく分かっていただろう。その数ページで僕もすっかりペースに飲まれてしまっている。何と素晴らしいアペリティフであることよ!


 ホームズではお馴染みの「職業当て」や「人物像当て」はここでも健在なのだが、実のところ、僕はそれほどこの推理ゲームがフェアだとは思っていない。まず導かれるべき答が先にあって、それに当てはまる問題を後からこさえている──そんな風に思うからだ。まあ、こんなのは重箱の隅もいいところなので、これ以上くだくだとは言わないでおく。その妖しい倒錯感も含めてホームズの魅力だと思う。


2020/05/26
 「バスカヴィル家の犬 (新潮文庫) | コナン・ドイル, 謙, 延原 |本 | 通販 | Amazon」


 残念ながら、手元に届いたのはリンク先にあるような新しいポップな装丁の版ではない(それでも、かつて読んだ版よりさすがに活字は大きくなっている)。今を去ること十年ほど前、個人的な第二次ホームズブームが到来。見ているだけで楽しい気分になる素晴らしい装丁の日暮訳光文社文庫版を中古で買い集めたものだった。しかし、読みやすいは読みやすかったものの、高校生の時に読んで体験したあの興奮にまではなかなか達しえなかった。


 もちろん、いろんな条件があるので、両者の単純な比較は難しい。それでも、いつかはあの青い背表紙の延原訳で再読してみたいという気持ちが胸の奥で燻り続けていた。それからなんじゃらかんじゃらあれこれほいほいといろいろあって、この度ようやくあの夏(一面の麦畑と誰かの作った草舟と)以来の再会を果たしているというわけである。


2020/05/25
 「ボルヘス詩集 (海外詩文庫) | ボルヘス, Borges, J.L., 直, 鼓 |本 | 通販 | Amazon」


   甲板のぼくは妹と、パン切れのように、黄昏を分け合っている。
   (「船旅」より)


 ボルヘスの伝記的な事実はだいぶ記憶の彼方にあるのだが、幼い頃の欧州旅行からの帰りだろうか。大人の足の柱が行き交う中。小さい子は彼ら二人だけ。その心細さと、互いに握った手の微かな温もり。そんなイメージ。近頃忘れがちだが、僕にも弟がいるのだ。


   不足しているのは向かいの歩道だけだった。
   (「ブエノスアイレス建設の神話」より)


 彼が愛するブエノスアイレス。それが都市化する前の、まだいろんなものが剥き出しのままな情景と生活の貧しさと、それ故の活力とがこの引用を含む連句から汲み取れる。謂わば、詩とは情報の美しい圧縮なのだろう。それを解凍するためには、己の内にもアルゴリズムを持たねばならない。


2020/05/24
 「事件 (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集) | 大岡 昇平 |本 | 通販 | Amazon」


 ようやく読了。特に大どんでん返しといったようなものはなく、裁判もそのままつつがなく終了し、被告の少年も少しばかりの拘禁的反応を見せたものの、その後は模範囚となったと書かれている。出所後は名もなき誰かとして市井でひっそりと生きていくであろう、本文はそう結んでいる。


 なるほど、これはこれでしゅっとしている。推理作家協会賞の名に恥じぬ充実の読み応え。とは言え、一つ引っ掛かっているところがあるのだ。それは、判決後に少年が後援者の元担任に向けて「自分は本当はそういう人間じゃない、ずっと良い子の振りをしてきたんだ」と吐露した場面である。これを「意外に軽い判決を受けたがために、反作用的に自罰的になったもの」として流しているが、僕などはそこに掘るべき大きな横穴があるではないかと思ってしまうのである。つまり、すべては演技で、自分のやったことも実際は覚えているし、検事や弁護士にもそこまで踏み込ませなかったという落ちを付け加えても、十分話は通じるのである。


 これは、現代を生きる僕の後出しジャンケン的物言いではあるわけだけれども、どうだろう、現在のミステリーはそこまで踏み込むことがある種の常識になっているように思う。安っぽく言えば、犯人の「心の闇」が総てを解くカギだというような。多くのサブカルチャーがそれを原資として様々な物語を生産している。しかし、『事件』の書かれた時代には、それはまだそこまで競りあがってきてはいなかった。「裁判」という「超自我」が、「無意識」の横溢をやんわりとごまかしながら抑えている、そんな構造を「近代」と呼んでもいいのかもしれない。


 そして、『羊たちの沈黙』以降の世界に住む僕らは、サイコパスで溢れ返った「ポストモダン」なミステリーを今では当然のように享受しているのである(やれやれ、また大袈裟なことを言ってしまった)。


2020/05/23
 「ボルヘス詩集 (海外詩文庫) | ボルヘス, Borges, J.L., 直, 鼓 |本 | 通販 | Amazon」


 先日はいささか大仰なことを書いてお茶を濁してしまったけれど、今回は具体的に行こう。例えば、こんなフレーズはどうだ。


   人間性とは、同じ貧困から生じる声がぼくらであると感じることだ。
   (「平安を誇る」より)


 書かれていることは高踏的と思われがちなボルヘスにしては、政治的ではある。多分、ボルヘスも若かりし頃には社会に対する義憤に駆られるようなこともあったろう。「資本論」を読んだり、インターナショナルを口ずさんだこともあったかもしれない。


   海は無数の剣であり、満ちたりた貧困である。
   (「船旅」より)


 原文でも同じ言葉かどうかは不明だが、先の引用からさほど遠くない箇所で再び「貧困」という言葉に出会う。少し意外な気がしてそこに引っ掛かる。こちらは先ほどよりもずっと「詩的」ではある。そのままでは、ほとんど意味は取れない。甲板に一人立って、小波立つ水面を眺めているボルヘスの姿を思い浮かべてみる。跳ねては消える尖った波頭が剣のようでもあり、その一つ一つが人だとすれば名もなき人々の群れのようでもある。


2020/05/22
 「事件 (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集) | 大岡 昇平 |本 | 通販 | Amazon」


 ふむ、僕は少しこの作家について誤解していたのかもしれない。まあ、代表作の『野火』を二十歳かそこらで読んだ切りだったので、そこまで深く考えたことはなかったわけだが、どちらかと言えば厳めしい雰囲気の、いかにも文学然とした作家なのだと思っていたのだ。


 そんなことを書き始めたのは、こんな一節と出会ったからである。「弁護士だって、朝起きて一番気が重いのは、裁判のある日だし、新聞小説作家は毎日書き継がねばならぬ小説を、毎朝、重荷と感じているのである。」(五三二ページ)


 うむ、これは紛うことなき「作家ジョーク」である。しかも、いささか自虐的な。これが「井上ひさし」や「筒井康隆」の作品だったらさもありなんといったところだが、いかにも堅物そうな大岡氏でもこのような筆の遊びをしていたというところが面白い。実際、本作の初出は新聞小説であった。連載、大変だったんだろうねえ。


 もちろん、それで本作の持つ重厚な感じが損なわれるというわけではないのだが、その見掛けに身構えたりせず、意外とカジュアルな態度で接すべき作品なのかもしれない。ほら、人間でもたまにそういうタイプ、いるでしょ。


2020/05/19
 「Amazon.co.jp: NCIS ネイビー犯罪捜査班 (シーズン15) (字幕版)を観る | Prime Video」


 映画やドラマなんて所詮は幻想なのであって、役柄や出来事が現実に沿っていなければならないというルールはない。長髪の熱血教師を演じた役者が画面通りの人格者であるという保証などどこにもないのだ。とは言え、そう簡単に割り切れないのが人間というものではある。幻想と現実の境目は微妙なものなのだ。


 エピソード 22 において、名脇役として長らくシリーズを彩ってきたアビー・シュートがチームを去る。なるほど、役者の降板や入れ替えなど、この手の長寿番組では日常茶飯事ではある。様々な「大人の事情」はあるだろうが、僕は元々その手のゴシップにはさほど興味がなかったので、この件の顛末は本シーズン鑑賞前のネットサーフィン中にたまたま目にすることになった。あまり気持ちのいい話ではない。何だか物悲しいような、これだけ名を遺す作品だというのに情けないといったような、複雑な気持ちがしたものである。


 さようなら、アビゲイル・シュート。君のファーストネームの「アビゲイル」って、何だかちょっと呪文みたいで不思議な響きがする。どんな使い道があるかはちょっと思いつかないけど、いつかどこかで何か大切なものにその名前を付けられたらいいなと思っているんだ。


2020/05/18
 「事件 (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集) | 大岡 昇平 |本 | 通販 | Amazon」


 いよいよ、残り数十ページ。クラシカルな推理小説ならば、探偵が関係者を一堂に集めて大見得を切ってみせるようなところだが、本作はある種の「アンチミステリー」であるため、判事たちの形而上的な法律談義が始まる。ベテラン、中堅、若手の三人が世代を代表するような形で議論を交わす。エンターテイメントとしてはちょっと厳しいものがあるかもしれないが、何度も述べているように、そもそもそういう目的の作品ではない。


 事件そのものの内容に少し触れると、被害者が被告の方に身を投げ出してきたために、ちょっとした脅しのつもりで出したナイフが急所に刺さってしまったというのは、本作が持っている重厚な雰囲気からするといささかリアリティに欠けるような気もする。被告がその場面をよく覚えていないというのも、ちょっと出来過ぎている感は否めない。残りのページですべてに整合性を持たせるような意外な真相が明らかになるのかもしれないが、それだといかにも「どんでん返しのミステリー的興趣」となってしまい、作品自体の趣旨と矛盾するようにも思える。


 誰が最も優れたミステリー書いたかという問いは、誰が最も優れた嘘をついたかという問いとも言える。嘘と現実の間をすり合わせていこうとすると多分必然的に破綻するのだが、そこをどう処理するかが本当の作家的技量なのではないかと思う。ミステリーはパズルではないのだ。「言語とは目覚めている間に見る夢である」、どこで読んだ一節かは定かでないが、僕には忘れがたいフレーズである。。


2020/05/14
 「Amazon.co.jp: アウトサイダー(字幕版)を観る | Prime Video」


  HBO 製作の「TRUE DETECTIVE/二人の刑事」が大変面白かったので、長らく敬遠気味のキング御大原作ながらとりあえず見てみた。 HBO 印の抑制の効いた演出と映像のクオリティは本作でも健在だ。


 作品数も多く、日本でもコアファンを多数抱えているスティーブン・キングだけれど、僕は今まで一冊しか読んだことがない。それは、隠れナチスの残党の老人に少年が感化され、次第に悪の道に染まっていくといったような話だったのだけれど、その少年が何故ファシズムに傾いていくのかが取り立てて論理立てて書かれているわけではない(と、その時の僕には思えたが、若さ故の読み違えかもしれない)ことに不満を持った。その当時、シリアルキラーの伝記やらプロファイリング関連の本なんかをよく読んでいたから、その点を濃密に描いてほしいと感じていたのかもしれない。そこにあると思った壁がなくて、すかっと手が通り抜けてしまう、そんな気分になったものだ。


 「人が人生を狂わせるに理由なんかない、そうなったからそうなったまでだ」。もしかしたら現実の近似値としては、そちらの方が正しいのかもしれない。それでも、その頃の僕には「心の闇」だってきちんと解していけば一本の糸にほどけていくに違いないと思えたのだろう。オカルトや超常現象といったもので済ましてほしくはなかった。だから、以来キングの作品は読んでいないし、オカルトテイストの海外ドラマにも手を伸ばすことはない。


 本作も概要だけ見るとそちら方面の作品なのだが、とりあえず第一話には引き込まれている。今のところ不可能殺人を扱ったミステリーと思って見ても不都合はない。超自然の存在を匂わせる箇所は、この回では二つ程度だと思う。


2020/05/13
 「Youtube - How To Play 'Custard Pie' by Led Zeppelin (Full Electric Guitar Lesson)」


 「Custard Pie」くらいならさすがに弾けるだろうなどと考えた俺がやっぱり甘かった。テクニック的にはさほど問題はないのだが、困ったことにオンラインギター講師によってそれぞれ微妙に弾き方が違っているのだ。さすがにメインの「A」のリフは共通しているが、「D」から「B♭」への下降、「E」から「G」へ行って頭に戻るところ、ここがバラバラなのである。


 今の人はハードなサウンドと言えば、「とりあえずパワーコードで」ということが当たり前になっているけれど、ジミー・ペイジの時代にはまだそうではなく、彼自身パワーコード的なコードワークをソングライトのベースにはしていない。例えば、有名な「Rock'n Roll」だけれど、その昔僕が買った教則本では歌唱部のバックではがっつりとパワーコードで弾くように指示されていた。しかし、実際はローポジの「A」と六弦三フレットの「G」の軽いチョーキングとのコンビネーションで、あのワイルドなリフは生まれている。これは彼の重要な手癖のひとつで、ロック史に燦然と輝く名曲群のそこかしこに出てくる。


 実際、このように弾かないとあのグルーブ感も出ないし、何より「それっぽく」ない。僕も長いこといろいろ耳コピ等してきたが、音階的には合っていてもどうにも「それっぽくない」ということがままあるものだ。そして、いろいろ試行錯誤していくと、時折「これだ!」と思う運指に出会う。そして、それがチャック・ベリーなどを初めとするロックのルーツミュージックに根差しているらしいことが分かったりして、音楽というのはそうやって過去から連綿と繋がり、時とともに進化・発展しているものなのだなと一人合点しているわけである。つまり、現代のパワーコード的な考えを基準に考えていると、遡ろうとしても難しいところがあるのだ。


 そんなこんなで「Custard Pie」の様々なヴァリエーションをいろいろ試し弾いてはみるのだが、どうも完全に「それっぽい」と思えるものにまだ出会えていない。僕が知る限り、当のジミー本人がこれを弾いているライブの映像は見当たらないので、正解探しの旅はまだまだ続きそうなのである。


2020/05/12
 「Youtube - Learn 4 Sweet Herbie Hancock Chords (Maiden Voyage Tutorial)」


 「Maiden Voyage」のイントロくらいなら弾けるだろうなどと考えた俺が甘かった。まず、オクターブが弾けない。低い方のキーを押す左手の小指が右隣の鍵も押してしまう。指を広げるにもそれだけでなかなか力がいるし、その状態で鍵盤を何度も押し込まなければならないのだが、それにもそれなりに筋力がいる(特に二の腕の辺り)。この感覚を単純に延長すれば、何かをフルで演奏するというのは結構な重労働ということになる。なるほど、ピアニストというのは一種のアスリートでもあるのだな。


2020/05/11
 ジャコ関連を二題。


 「5 Greatest Jaco Pastorius Bass Lines of All Time - YouTube」


  BPM を遅くした「Teen Town」くらいなら弾けるだろうなどと考えた俺が甘かった。ベースは十年以上ソフトケースに入れっぱなしなので(きっと中で妖気を帯びて良からぬものに変化しているに相違ない)、いつも使っているストラトのコピーモデルで指弾きしているのだけど、頭の中ではフレーズが鳴っているのに、それを指が追い掛けられない。いつかは「Dona Lee」を完コピしたいと思っているのだが、こいつは気が遠くなるほど長い戦いになりそうだ。


 「Aron Hodek - The Chicken //R. Tariska & Radio band// - YouTube」


 こんなに可愛らしいのに素晴らしいタイム感で、たちまち虜になりました。煎じて飲むので爪の垢をフェデックスで送ってくれないかな。


   ***


 「「物議を醸す」の意味と由来は?間違い表現や例文・類語も紹介 | TRANS.Biz」


 最近、「YouTube」で「物議を醸し出す」という言い方を二例ほど見掛けて、これはちょっとどうなのかなと少し調べてみた。「醸し出す」のは「印象」や「雰囲気」であって、議論を巻き起こしたり、世間を騒がせたりという時には、ただ単に「醸す」だけでいいのではないかなと思ったのだ。


 上記リンク先を見てみると、完全に間違いとも言い切れないようなのだが、「物議を醸し出す」だと「物議」がじわじわと流布して広まったというニュアンスになるようなので、やっぱり喧々諤々な感じとは合わない気がする。


2020/05/10
 「岡崎京子の名作を映画化!『ジオラマボーイ・パノラマガール』特報映像」


 こうしてリンクは貼ったものの、その先の映像はまだ怖くて見ていない。僕が邦画に対して抱いているほぼ絶望的なイメージからすると、十代の僕の脳天をハンマーで殴りつけ、その後の人生を大きく狂わせることになったあのコミックがどんな目に遭わされるか、とても分かったものではない。


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 「ボルヘス詩集 (海外詩文庫) | ボルヘス, Borges, J.L., 直, 鼓 |本 | 通販 | Amazon」


 前回は少しばかり腐すようなことも書いてしまったけれど、内容は最高である。その素晴らしさを伝えるための語彙が僕には圧倒的に不足しているため、彼の作品の中で誰かがやってのけたように、全文を丸々引用して示す他には伝える方法などないのではないかと思ってしまう。


 つまり、こういうことだ、何かを深く批評するということは、それ自身が新たな詩であるべきなのだ。僕は今それを探しているのだと思う。もしかしたら、それはあらかじめ不可能なことで、永遠の時間を必要とするのかもしれない。ボルヘスという男もまた、ダンテや北欧神話の背中を遠くに眺めながら、そのように生きたのかもしれぬ。


2020/05/09
 その昔、『「朝子」「夕子」はいるのに「昼子」は何故いない?』というようなことを考えたりしたもんだが、今日はふと「お昼」という言葉はあるのに「お朝」や「お夜」という言い方はないのは何故なのかということが気になった。


 頭に「お」をつけると丁寧な言い方になる、そんな風に子供の頃ぼんやりと習った気もするが、この規則に汎用性があるかというと意外とそうでもないことが分かる。「お米」とは言うが、「お麦」とは言わない。「お箸」とは言うが、「おフォーク」という人はいない(イヤミくらいだ)。


 日本の食器関係には「お」をつけても大丈夫なものが多い。「お膳」「お盆」「お椀」「お皿」などなど。食べ物はというと、「おいも」と「お米」、「お肉」「お野菜」あたりはいうが、より細かい品種になると意外とつかない(これらは丁寧というよりもやや幼児向けに柔らかくした表現という気もする)。「お小松菜」とか「おトマト」などとは言わない(「おネギ」は言うか)。基本、外来語にはつかないような気もする。この用法がそれらが入ってくる前に固定的に定着したものだろうということを伺わせる。


 「お朝」はないが、もしかしたら「おはよう」の「お」はそれに近しいものだろうか。「おめでとう」も「お」と「目出度い」が合わさったものだろう。ルーツをたどれば宮中の言葉遣いにたどり着くもののように思えるが、今日のところはこれ以上深入りはしない。


 他にも、「うち」に対して「おうち」という言葉はあるけど、コロンボが「おうちのかみさんがね」などと言ったりはしない。「宅」を「お宅」にすると、「あなたの家」というニュアンスになる。いろんなところに出てくる「お」だけれど、あらためて考えてみると都度都度でいろんな意味を含んでいて、それらを我々は訳もなく使い分けているというのが興味深い。


 では、本日のお話はここまで。お後がよろしいようで。


2020/05/05
 「事件 (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集) | 大岡 昇平 |本 | 通販 | Amazon」


 さあ、話もいよいよ大詰め、今日こそは一気に最後まで読んでしまおうと思って意気込んでいたところ、本書の四百六十二ページにおいて驚天動地の記述にぶち当たってしまったため、この論考を先に認める羽目になってしまった。そこには何とこう書いてあるではないか、「それは筆者がこの小説で、死体の形状、傷口の状態について、推理小説的描写を行わなかったのと、同じ理由による」と。


 ハイ、出ました、小説自身による「これは小説です」宣言。ここまで散々ぱら本書における語りの構造についてネチネチと私論を述べてきたが、その総てをひっくり返しかねない衝撃の一文だ(そんな風にここを読んだ人は歴史上僕しかいないと思うが)。しかし、俺も本読みの端くれ、涙目になるのを必死で堪えながら、懸命の悪足掻きをしてみたいと思う。


 基本的な約束事として、小説内での出来事はその小説内では「現実」であることになっている。その作品の内部においては、ヴィクトリア朝のロンドン、そのガス燈の下に確かにホームズが闊歩しており、ワトソン氏が実際に体験したことが彼の筆によって冒険譚としてまとめられたというルールでその世界は括られているのだ。よって、ハン=ソロが「俺は絶対に死なないよ、だって、主役クラスだからな」などとは通常言ったりしないものなのである。


 では、この「小説宣言」はフィクションの構造を逆手にとって読者を幻惑させるようなトリックとして機能しているのかというと、これは全くそうではない。本書が書かれた当時、恐らく「メタフィクション」などという言葉は全く世間に流布していなかったかと思われるし、暗黙のルールからのずらしによって面白みを生むというやり方が成立するのは、コンテンツが過剰に溢れ、消費する側もそのような状況に飽いてきて、作品そのものを真正面から受け止めるだけではなく、穿った見方を楽しむようになってからのことだろう。


 本作におけるこの一文は、もっと無邪気に書かれたものだ。作者にはひたすら扇情に徹するような「推理小説的描写」に眉を顰める気持ちがあり、その思いが強すぎたため、このようにいささかルールを破るような記述になってしまったものと思われる。例えば、「筆者がこのルポルタージュで」となっていれば、一気に総ての記述がフィクションの階層に引き上げられ、「虚構の構造」が崩れることはない。しかし、それはそれで本作のスタンスをがらりと変えてしまいかねないという気もする。


 恐らく、「小説家・大岡昇平がミステリー仕立ての作品に挑んだ」ということが読み手の心にフックとして予め掛かっている。そのことを作者も分かっている。先の一文は、そのような共犯関係の為せる勇み足ではないか、ひとまずのところはそのようなまとめをしておくことにしよう。考えてもみよ、「これは小説です、ここに出てくる上田宏なんて男は存在しないし、この気高い弁護士だって本当はいないんだよ」などとわざわざ言う必要はないではないか。


 さて、今回もくだくだと語ってきたが、あなたを納得させられたかどうかについては、正直いささかの心許なさが伴うところだ。


2020/05/03
 「事件 (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集) | 大岡 昇平 |本 | 通販 | Amazon」


 本作を読んでいると、作品内の記述で時折作者の社会風潮批判や裁判制度への意見などが差し挟まれる個所に出会う。では、この作品が基本的に架空のお話なのだとすれば、これもフィクション上での「絵空事」なのか。もちろん、そうではない。むしろ、その主張のために作品があるといった方がある意味では正しいのかもしれない。その部分の階層は我々の「現実」と地続きになっている。


 あまりにも進歩した科学と魔法の区別がつかないように、本作は実際の事件に材を取ったノンフィクションと全く区別がつかない作りになっている。事前情報もなく、作者名も隠された状態で手渡されて読み始めた人には、恐らく判別がつかない、もしくはそんなことは気にも留めずに、ある裁判の記録として読み終えてしまうかもしれない。僕などは、「あの大岡昇平が書いたミステリー」という前知識があるので、作品の付置や意図をある程度意識しながら予め向き合っているのである。


 先程述べた「地の文に作者の主張が混ざり込む」という体験にはどこかで覚えがあった。それはホーソンの『緋文字』のことなのだが、あの作品も一応裁判を扱っていると言えば言えなくもない(本作への影響はこれっぽっちもなさそうだが)。


2020/04/28
 「ボルヘスのボルヘスらしさが詰まった一冊。その多面性が十分に堪能できる (2020年4月24日) - エキサイトニュース」


 これじゃあ、何だか”ボルヘスを読んでるやつはみんなディレッタントだ”みたいに受け取られ、新規に参入しようとする読者をあらかじめ怖がらせてしまいかねない気もする。ボルヘスに倣うべきところがあるとするならば、それは知性よりもまずその気高さの方だろう。自分がそうなれないなら汚してしまえというのでは、ちと情けない(自戒を込めて)。


   ***


 つまり、僕はあのフレーズをこう組み直さなければならない──「何故、(今?)言語にとって美が問われないのか?」、と。


2020/04/25
 「事件 (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集) | 大岡 昇平 |本 | 通販 | Amazon」


 基本的には本作はフーダニット的なミステリーではないから、謎解きとかアリバイ崩しの妙があるわけではない。三分の二を過ぎたあたりで急展開があるのだが、何かを痛快に暴いていくというより、ありきたりの事件として何となくこんなものだろうとすましてきた細部を突っついてみるといろいろと襤褸が出てくるといった類のものだ。


 一応カタルシスを感じもするが、ちょっと待てよと思うところもある。読者にすべての材料が与えられつつ、実はAと思われていたことがBだったという(クィーン的な)驚きがあるわけではなく、新たな事実がそれまでの筋の外部からドドンと持ち込まれているからだ。


   ***


 本当はもっとまめに更新したいと思うのだけれど、ぽけっとしているうちに何となく忘れてしまう。以前のような賑わい(と言えるほど大したものではないが)を取り戻すのは容易ではないだろうが、何だかんだで自分にとって読書こそが最高の娯楽であるということを改めて感じている。無論、その禍々しさも含めてという意味だ。


2020/04/21
 「事件 (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集) | 大岡 昇平 |本 | 通販 | Amazon」


 この作品自体はそのことに頓着しているわけでもないし、そこに何かほつれがあるわけでもないのだが、この小説の地の文の語り手は誰なのかということを少し考えてみた。


 先ず、第一の層として、当然ながら「これは小説である」という大前提が横たわっている。その上で「その中においてはこの事件は現実だ」という体で作品は書き進められている。


 第一の層の書き手は、言うまでもないことだが作者である「大岡昇平」である。では、第二の層の書き手は誰なのか。これも「大岡昇平」なのだろうか。だとすれば、ある架空の世界内に「大岡昇平」という人物がいて、それがルポルタージュのような形である殺人事件の裁判について詳述しているといった格好になる。


 例えば、この書き手に「架空の新聞記者」等を据え、その人物が一人称で書き進めるというスタイルをとる作品も数多くあるだろう。本作は特にそのような説明は僕が読み終えた中盤地点まで見当たらないので、作者、もしくは作者と同等の素養を持った誰かによる記述であるという了解のもとで読者は読み進めることになる。実際、その点は少し曖昧なような気がしている。例えば、エーコの『薔薇の名前』ならば、そこにはしっかりとした構造があるわけだ。


 登場人物の私生活なども活写されているので、それはいわゆる「神の視点」によってのぞき得たものなのか、それとも作品内の語り手が取材を通して知ったものを元に再構成しているといった体のものなのか。


 基本的に、本作はそのようなレベルでのテクニカルな遊びをしているわけではないので、このような些末な分析(屁理屈)が読解に役に立つということはない。簡素な文体がもたらすリアリスティックな雰囲気を感じ取れれば十分なのである。


2020/04/18
 「リー・コニッツが死去 死因は新型コロナウイルスによる肺炎 | ARBAN」


 もう随分と前に多くの CD を手放してしまったが、リー・コニッツとウォーン・マーシュのアトランティック盤は手元に残した数少ない作品の一つ。特にリー・コニッツの熱心なファンというわけでもないのだが、そのアルバムの雰囲気はとても好きだ。ご冥福をお祈りしたい。


2020/04/17
 コンビニに向かう道すがら、紫色のコートを着た御婦人が玄関前に立っているなと思ったら、それは生け垣を覆いつくさんばかりに咲く藤の花であった。


2020/04/16
 これこれ、蚊の諸君。君たちが食事にありつこうとして群がっているその白と黒の巨大な塊は、水牛ではなくパトカーというのだ。


2020/04/15
 「事件 (双葉文庫―日本推理作家協会賞受賞作全集) | 大岡 昇平 |本 | 通販 | Amazon」


 こと文章の水準という点において言うと、僕は西村京太郎や内田康夫あたりの世代に対してもかなり首をかしげることがあったものだ。もしかしたらかなり間違った史観かもしれないが、かつては文学に夢破れた人間が生活のために娯楽小説の世界に降りてきた。やがて、最初からそのジャンルを目指す人間が出てくる。文体の研鑽のための「青の時代」などは必要ではなくなった。大量の雑誌に大量の作品が求められたため、スピードが重要事項となる。今ではどうだろう。僕には、今の散文の世界は「絵のない漫画」に見えることがある。


 文章の稠密具合、登場人物たちの年齢が非常に若いのに世慣れている感じがすること、もろもろ時代を感じさせる部分はあるが、今の僕にはこのくらいの噛み応えがないと何かを読んだ気分にはならないのである。


2020/04/11
 「ボルヘス詩集 (海外詩文庫) | ボルヘス, Borges, J.L., 直, 鼓 |本 | 通販 | Amazon」


 ちょっと気になるんだけど、やたらと句読点が多い。詩を訳す際にはあまり付けないものだと思うのだけど、どうなんかな。あと、一人称が「ぼく」になっているのも、何だかボルヘスっぽくない。詩集のタイトルは結構固めに訳しているので、ちょっとバランスがおかしい気がする。


 鼓さんは経験豊かな訳し手だと思うのだけど、『ブロディーの報告書』でもちょっと違和感を覚えたような記憶がないでもない。まあ、僕が擬古調の訳を期待しすぎているだけのかもしれないけど。


2020/04/06
 「エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する | ブライアン グリーン, Greene, Brian, 一, 林, 大, 林 |本 | 通販 | Amazon」


 再読中。最初に読んだのは、世間がヒッグス粒子の発見に沸き立つ前だったか、後だったか。一般向け科学解説書を読み漁り始めた頃で、何もかもがキラキラと輝いて見えたものだ。


 しばらくして、いつまでもその手のものを読んではしゃいでいる場合でもないかと思い、少し硬めの本にも手を出したのだが、流石に数式などが出てくるととても歯が立たない。リアルサイエンスとポピュラーサイエンスの狭間に立ち往生する結果となってしまい、段々その手のものから心が離れてしまった。


 それから幾星霜。放送大学のラジオ版物理学講義を録音し、繰り返し聞いたりもした。そんな経験を積んだ上でもう一度読んでみると、あの頃は雰囲気だけでさらりと読み流していたなということが改めて分かってくる。なるほど、こうして今僕はサイエンスの旅の二周目に入ったのだ。「おい、坊主。随分お楽しみのようだが、お前はまだ俺のことも味わい尽くしちゃいないんだぜ。いつもう一回手に取ってくださるお積りなんだい」などと、本棚からたくさんの書物がぎょろりと僕をねめつける。


2020/04/04
 「Amazon.co.jp: 刑事ヴァランダー(字幕版)を観る | Prime Video」


 とりあえず、フルエピソード視聴完了。残念ながら、シーズンが進むに従って、視聴意欲が薄れていくという結果ではあった。


 視聴者の興を惹くためにショッキングなオープニングを用いるというのは、ミステリードラマにおいては定石ではある。その微妙な外し方と狙い方が最初の頃はドラマのゆったりとしたテンポと相まっていい具合に思えたのだが、徐々に締まりがなくなって、ピリッとしなくなっていった感じがする。


 そもそも、殺人課の刑事があんなにぶよぶよの体でやっていけるのだろうか。凶悪な犯人と鉢合せしてすったもんだする可能性だってあるだろうに、どうにも頼りない。かと言って、柔和な表情の裏で実は鋭い観察力を働かせている影の切れ者…という感じでもない。手法も時にスタンドプレー的である。要するに、刑事に見えない。ヴァランダーはよくピーコートを着ているが、何だかカレッジの学生のようなセンスである(とても可愛い)。


 第二シーズンまで登場していた負傷退職する女性刑事の思慕にヴァランダーは気付いていない。この二人の関係はもう少し掘り下げてほしかったような気がするんだけどな。


 アメリカ製のテンポの良いドラマに毒された体にはいい解毒剤ではあった。その点においては、『第一容疑者』や『心理探偵フィッツ』などに連なる英国ミステリードラマの衣鉢を継がんとする良作ではある。しかし、やはり主役の俳優がミスマッチという感じは否めない。


2020/04/03
 「Amazon.co.jp: あなたは解けるか? 伝説の殺人鬼の暗号を観る | Prime Video」


 「ゾディアック」にしても、「切り裂きジャック」にしても、今からその全貌を知ることはなかなか難しい。それは、これからシャーロキアンになるのが難しいのと同じことだ(横溝マニアにも乱歩マニアにもなれなかった、中途半端な俺よ)。


 全般にいささか演出が過剰と言うか、本当に必要かと思えるようなシークエンスもあり、多少もどかしさを感じるところもある。特に人工知能が導き出した暗号の特徴などは、人が目で見ても十分分かるような類のものではないかと思える。コンピューターの描き方もいささか前時代的で稚気染みている。


 国内での「失踪者捜索」や「未解決事件捜査」的な番組でも思うことだが、実際に解決されていれば既に大手メディアにおいて報道されているに決まっているので、そのようなリリースがどこからも出ていない以上、どれだけ思わせぶりなことを言って興味を引っ張っていたとしても、番組内での解決が決してあり得ないということは最初から判明している。それも含めての「テレビ」だとは思うが、どうにもすっきりはしない。


 脅迫状におけるセピア色のサブカルチャーからの影響については、今まで聞いたことがなかったので、この点は新鮮な情報だった。人の死に等級などないが、物語になると話は別である。事件が纏うそこはかとないB級感と現実の血生臭さの間に、この卑劣な犯人は今も隠れているのだ。


2019/01/26
 折からの夜風に熱を奪われた街は、俺の体からそれを補充しようと大気を伝ってじわりと締め付けてくる。空調の効いた部屋の中にいるというのに妙に寒いのはそのためだ。俺は褐色の温かいエントロピーを喉に流し込んで、命のポンプをひとしきり押し下げる。その傍らで携帯プレイヤーが蓄電されたエネルギーをミシェル・ペトルチアーニに変換して放射する。いかにも、物理法則というやつは義理堅いもので、彼らが約束を破るのを俺は未だ見たことがない。


2019/01/06
 モイーズのような小物(失礼)でも駄目、ファン・ハールのようなシステマティックな攻撃偏重でも、モウリーニョのような守備偏重でも駄目。ようやくここへきてスールシャールという、ファーガソンの退任によって失ったピースにフィットしそうな人材を据えることが出来たマンチェスター・ユナイテッド。選手たちは活き活きと走り出し、チームも連勝を続けている。もちろん、監督交代時に気分がリフレッシュして、その高揚感で一時的に強くなるといった現象はサッカー界ではままあることだ。スールシャール効果の真価が問われるのはここからだろう。


 元々ユナイテッドというチームは、怪物級の才能を持った選手たちが熱いパッションでバチバチと相手に襲い掛かるからこそ「赤い悪魔」と呼ばれてきたのではなかったか。しかし、国内だけでなく、欧州レベルでも常勝軍団であり続けるためには戦術的にも洗練されていかなければならない、ファーガソン自身も退任間際にはそんな風に考えていたのだろう。香川真司を招き入れたのもその逡巡の表れではなかったか。


 だが、事はそう簡単ではなかった。シティやチェルシーがそうしたようには、チームの血を入れ替えることは出来なかった。クラブの歴史に沁み込んでいる何事かがそれを拒んでいる、そんな風に僕には見えた。このチームに必要なものは、科学的に養分を調整された人工的な血液ではなく、脈打つ心臓から溢れだすような本物の鮮血なのである。


2019/01/05
 「Amazon.co.jp: THE BRIDGE/ブリッジ シーズン3(字幕版)を観る | Prime Video」


 第三シーズンがプライムビデオ扱いになったので、喜々として視聴開始。これまで通りの重たい雰囲気と静謐な映像美を堪能している。メインになる殺人事件の捜査も含め、複数の出来事が同時に少しづつ進行していくスタイルも毎回お馴染みだが、今回はその間の関連性をなかなか明示してくれないので、何だか全然関係ない話をいろいろと見せられているような気になってしまう。登場人物も多くていささか混乱する部分もある(似たような若造が三人も出てくる)。多分、前作よりスケールを大きくしないといけないという思いがやや勇み足となって出てしまったのだろう。シリーズ物のジレンマというやつかもしれない。


 非常に特徴的な主人公のサーガ・ノレーンは今回も健在である。以前つらつらと「YouTube」を眺めていたら、演じている女優さんのインタビューらしき動画を見掛けたのでクリックしてみると、英語字幕だったので内容までは十分分からなかったものの、驚いたことに、本人はサーガとは似ても似つかぬとても気さくな雰囲気の人で、あのキャラクターは完全に演技による作り込みだったことが判明。まあ、当たり前と言えば、当たり前なわけだが、これが「女優」というものかと改めて舌を巻いた。その他、署長代理やサーガの母親、自己啓発系セミナーの主催者にストーキングする女性なども、地味ながらじわじわと怖い。


 ところで、映像作品を観ていると、登場人物の所作などがそれと知らずに自分に移ってしまうことがよくある。その顕著な例がカンフー映画を観た後で自分も拳術使いになったような気分になるやつだろう。そもそも、生物には自分と同類の個体の動作や振舞いを真似ようとする強い本能があり、それが社会性の物理的な基礎となっているのではないかと思う。


2018/02/24
『山吹』
 猫が人にじゃれる時にも獅子がシマウマをしとめる時と同じ動作をするように、それがいかな裏腹の態度に見えようとも、私にとって殺人とは愛する者に対して自分の思いを伝える行為に他ならない。私の身体にはそのパターンしか組み込まれていないのだ。あまり思い出したくないが、恐らく幼い頃に厳しい折檻を受け続けたためだろう。義父は、鼻から精液が垂れているのではないかと思えるほど多淫の人物であった。夜毎、母を激しく責め立て、その恐怖とも苦痛ともつかぬ呻き声を子守歌の代わりに眠ったものだ。よもやそれが快楽の極みに出るものだとは、思いも寄らなかった。


 敏子はそんな私に大変に尽くしてくれた、情の深い女である。詳しく聞くことはなかった、暗い過去を持った女であることは、体中に刻まれた古い傷跡の数々からも伺えた。そんな敏子の背中を風呂場で洗ってやりながら、いつかこの女を殺すことになるのだろうという鈍色の確信が幾度もこの胸を通り過ぎた。その温かな殺気を、きっと彼女も感じていたことだろう。首筋の産毛が不意にしゅっと立つのを、私は夜具の中で何度見掛けたことか。


 彼女の骸が眠っているのは、春には山吹が咲き誇り、夏には揚羽蝶が舞う、実に美しい場所だ。雪が降ると、私が掘った地面だけ少し柔らかいのか、ぼんやりとした矩形が雪面に凹みを作り、私にその在り処を教えてくれる。もちろん、人里遠く、訪れる人もない。私が度々彼女を訪ねたため、野山に通じた人物ならば、そこに未熟な獣道の姿を認めることがあるやもしれぬ。彼女は、世間が羨んでやまない実直な夫が何故自分の首を絞めているのか、その理由を今際の際に理解し得たであろうか。彼女の墓の近くに毎年一輪だけ咲く名も知らぬ花の紅の深さが、彼女からの返答のような気がしている。


2018/02/21
 「Youtube - 【ハイライト】バイエルン×ベシクタシュ「UEFAチャンピオンズリーグ17_18 ラウンド16 1stレグ」」


 試合結果は順当なものだろうが、解説の鈴木良平氏が「ワグネル・ラブ」のことを「ワグネス・ラブ」と言い間違えていたのが面白かった。恐らく「アグネス・ラム」に引っ張られてのことかと思われる。堅物そうな良平氏だが、その昔ファンだったのかな、とか。


   ***


 「“日本人離れ”の衝撃弾! 宇佐美貴史、3人包囲網で右足一閃…ファン熱狂「ついに来た!」 | Football ZONE WEB/フットボールゾーンウェブ」


 ゴール自体はエクセレント。宇佐美に関してひとつ不満なところは、「33」なんぞという大きな番号を背負っているところだ。ガンバに復帰した時も「39」だったし(いい空き番号がなかったのかもしれないけど)。僕などからすると、この番号は「三軍選手」扱いということを意味している。本来なら、とっくの昔に「10」番を背負って、チームの「顔」として、ピッチの内外で「スター」になっていなければならない男なのにね。


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 「Youtube - 【公式】ハイライト:蔚山現代vs川崎フロンターレ AFCチャンピオンズリーグ GS MD2 2018_2_20」


 ここ数年の傾向と同じく、 ACL では振るわない日本勢。ゼロックスの時も思ったけど、川崎の選手はいささか線が細いように見えるのが気になるんだよね。 ACL に出るということは、要するに週に二試合をこなすフィジカルが必要ってことだからさ。


2018/02/19
 いろいろゴタゴタしていたので、様々なものに対して気持ちが一旦切れてしまった。どの海外ドラマを観てもいまいち入り込めないし、それまで熱心に追いかけていた IT やサッカー系のユーチューブ動画にも食指が動かされない。科学系の本を読むのも頭が付いていけずにしんどいし、賢治やナボコフさえ一行も目を通していない。本を開いた途端、著者近影からこの怠慢を怒られそうだ。


 自分自身に対するケアでリソースを使い果たしてしまっているということもあるし、長らく耽溺してきたサブカル三昧の生活そのものに対する反省もある。素粒子、宇宙、動物の生態などにしばらく明け暮れていたが、その熱もいささか冷めてしまった。夢中になれる新しい何かも今のところは見当たらない。「ボルヘスにおけるカバラ主義と古英語のアマルガム的文体」よりも、最後のお通じからそろそろ一週間が経とうとしていることの方が気掛かりなのである。


2018/02/18
 栄養補助食品の「メイバランス」。実際に病院でも使われるような製品らしいのだけど(僕も退院時に栄養士の方に勧められた)、注意書きのところに「静脈内等へは絶対に注入しないでください」との一文があるのが、軽くホラーであることよ。


2018/02/15
 唐突に僕の心臓がシンディ・ローパーを歌い始めた。待ってくれ、ちっとも趣味じゃないんだがと文句を言うと、たまにはバスケットにサンドイッチでも詰めてピクニックに出掛けるような気分になるのもいいだろうと反論してくる。僕が困惑していると、今度は胃袋の野郎がリック・アストリーを嬉々として歌い始めるではないか。オーマイガッ。


 でも、膵臓のヤツが小さな声でプリファプ・スプラウトを口ずさんでいるのを僕は聞き逃さなかったよ。つまりは、世の中捨てたもんじゃあないってこと。じゃ、また、明日。


2018/02/12
 昨晩は湯冷めをしてしまって、足元は冷えるし、頭は痛むし、散々だった。「新しい人よ、湯冷めよ」などと詰まらぬジョークを思いついたことだけが唯一の救いだったと言える。


 山下達郎が年金需給の手続きが面倒云々というような話をラジオで語っていた。最近、ポップカルチャーの中にも「死への準備」を感じさせるものがあるなと時々思う。洋楽の世界ではロックレジェンドのお歴々も随分と鬼籍に入った。その波はいずれ我が国にも確実に訪れる。


 いずれ、僕が思い出す人々の総てが死者になるような時が来るのだろうか。このまま宇宙の膨張が続くと、やがて光さえ届かないほどにすべての星が離れ離れになり、夜空は真っ暗になるのだそうだ。百億の昼と千億の夜を僕らは迎え入れなければならない。


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 モラタって、移籍すれば確実に大爆発するような雰囲気だったけど、「不遇で可哀想」というフィルターのせいで少しばかり過大評価になっていたのかもしれないね。実際、レアルでスタメンを張れなかったのは、単純にベンゼマやロナウドといったメガクラッククラスの選手ではなかったからだ。


 柴崎はヒーローになり損ねたね。ホームに続いてカンプノウでもゴールとなれば、そのニュースは世界中に打電されたことだろう。今後も試合に出続けて、経験を積んでほしいと切に願うよ。彼の水瓶にはまだまだ余裕があるはずだ。


2018/02/05
 「 Bass Musician Magazine NAMM 2018 - Doug Wimbish,Brandon “Taz” Niederauer,Raghav Mehrotra 」


 ローリングストーンズのベーシストであるダグ・ウィンビッシュが天才少年とトリオスタイルで登場。 NAMM の会場ではこの手のイベントからハプニング的なスーパーセッションまでが毎日のようにあちらこちらで行われているんだろう。そりゃ、追いつけないわけだ。ギターの坊やは、まだまだ荒削りな面もあるものの、弾き方には独特なセクシーさがあるし、ドラマーもミッチ・ミッチェルばりに喧しい(もちろん、誉め言葉だ)。


2018/02/01
 「【動画】PL第25節 トッテナム vs. マンチェスター・U ハイライト - スポーツナビ「(C)PREMIER LEAGUE 2018/スポナビライブ」


 どうだろう。僕くらいの年齢になってくると、無意識的に時間の流れに抗おうとする気分が働くようになるのかもしれない。現実を直視すれば、じわじわと忍び寄る老いの兆候と向き合わざるを得なくなるからだ。よって、ユナイテッドの監督がモウリーニョだということがまだいまいちしっくり来ないし、トッテナムのエースストライカーは未だにロビー・キーンのような気がしている。


 そうやってせき止められた時間を繭のようにして己の幻想に包まれていくことしか、迫り来る最後の時から目を逸らす方法はないのだろうか。フットボールよりもそんなことが気に掛かるこの頃だ。


2018/01/18
『冷めない紅茶』
 ある日のこと、日曜日の惰眠を貪っていた私に地球の真裏にある研究所に勤める大学時代の友人から風変わりな荷物が届いた。同封されていたメモによると、この何の変哲もないカップこそ、「全人類が希求して止まなかった、いつまでも冷めないコーヒーが飲めるカップ」なのだそうだ。この内部に注がれた液体は、あたかも自分の周囲に自身より高温の媒質があるかのように錯覚し続ける為、通常なら防ぎようもない熱の散逸が一切生じないのだという。これは量子力学のなんたら効果を利用したもので、…(以下、意味不明な数式が延々と続くので割愛する)。


 物は試しと翌日オフィスで使ってみたところ、確かに三十分前に淹れたコーヒーがまだ同じように温かいばかりか、退社時間を過ぎ、更には残業にうちひしがれる深夜に至っても、中のコーヒーが全く冷めることがない。あいつの話は本当だったのである。俺は感動の余り、時差も考えずに国際電話を掛けた。おい、こいつは素晴らしいシロモノじゃないか、是非商品化するべきだよ、絶対に大儲けできるぜ、そうだ、ラーメン丼なんかもどうだ、お猪口なんかもいいな、おい、聞いてるのか、お前もたまにはまともな物を作るんだなって感心してるところなんだぜ…。興奮気味の俺の耳に向かってヤツは雑音混じりにこう言った。いやあ、どうかなあ、何しろ今は一個作るのに十億くらい掛かるからねえ、お前が社長にでも出世して、ポンと現ナマを出してくれるっていうのなら話は別だがね、あっはは…。


 俺は慌てて親指でくるくると回していた十億円を、両手でがっしりと掴んだね。


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 以上は、私が昨年末の入院中、スマホのメモ帳アプリを用いて手慰みに書いたものである。病室に持ち込んだ量子力学の解説書を読みながら(残念ながらほとんど理解不能なのだが)、食事前に配られる熱々のほうじ茶が、食事時には完全に冷め切ってしまっているのをどうにか出来ないものかと考えていたので、こんなものが出来た。最初はもっと簡素なものだったが、くしゃくしゃになったアルミの玉を丁寧に伸ばすようにして細部をちょこちょこと広げていき、数回のリライトを経て、とりあえずこのくらいの質感に着地することにしたのである。


 しかし、そういったディテールの伸展を始めると、それをどこまで行うべきなのか、この話に必要なスケール感はどの程度のものなのかがよく分からなくなってくる。これは、僕が小説らしきものを書き始めると、毎回陥る穴である。梱包を開封する描写を入れたら良いのか。登場人物の関係をもっと書き込むべきなのか。もし、そこまで踏み込むとしたら、もはやそれはアイデア勝負の「ショートショート」ではなくなり、「凡人とマッドサイエンティスト」の連作物というフォーマットすらも見えてくる(いわば、「ワトソンとホームズ」の亜種である)。しかし、そんなものがすらすら書けるのならば、そもそもこんなところで苦労したりはしないのだ。


 よって、現在の稿でも、いくつかの基準尺度の違うパーツがちぐはぐに継ぎ合わされている、そんな座りの悪さを覚える。広げようと思えば広げられなくもないし、余計なものは加えずにもっとソリッドにしてもいいのかもしれない。いずれにせよ、そこまで思い悩むほどの代物でもない。こうして、この子もまた、ローカルフォルダーの奥まった場所にそっとしまわれていくのである。


2018/01/16
 「【動画】ラ・リーガ第19節 レアル・ソシエダ vs. バルセロナ ハイライト - スポーツナビ「c 2018 Liga de Futbol Profesional/スポナビライブ」」


 バルセロナ相手に久しくそんなことをやってのけたチームはなかった。ホームに強いソシエダが、サイド攻撃から二点を先取。今後対戦するチームのスカウト陣にとっては、非常に参考になる得点シーンとなったことだろう。


 バルサに穴を探すとすれば、現状では右サイドバックのセルジ・ロベルトくらいしかない。元々本職ではないし、フィジカルやスピードに秀でているわけでもないし、カンテラ出身ということで経験を積ませている最中ではあるが、今後ワールドクラスのプレイヤーにまで成長するかどうかは未知数である。しかしながら、プジョールやイニエスタですらデビュー当時はあれほどの名声を獲得するに至るとは全く思えなかったので、どう転ぶかは全く予想が付かない。期待されてトップチームに加わるも、いつの間にか控えから度重なるレンタル要員へと堕ちていった選手も星の数ほどいるのだから。ガブリやボージャンですら、カンプノウを離れなければならなかった、そんな「伸び悩み」に厳しいクラブという顔もこのチームは持っている。


 しかし、今季のバルセロナに違いがあるとすれば、バルベルデに修正能力があるということだ。具体的にどうしたと言えるほどの戦術に関する知識はないが、後半はここへきてようやく調子の上がってきたスアレスのビューティフルゴールなどもあり、見事にゲームを引っくり返してみせた。しかも、バルベルデは失点に絡んだセルジ・ロベルトを変えたりはしなかった。むしろ、得点シーンではゴール前に全力で走り込んでいるのである。もし、ここでベンチに引っ込められたりしたら、「よくある失格の烙印」が彼に捺されてしまうことになる。むしろ、逆に「もっと前に行け」と鼓舞することで、そうなることを回避したのではないかと思う。


 バルセロナの長年の課題であった「セカンドプラン」をバルベルデによって克服し、チキタカ的な爆発力はやや薄くなったものの、引き出しを増やすことで様々な状況に対応できるようになったというところか。高さや躍動感もパウリーニョによって補われているし、メッシも七割から八割くらいの力の入れ具合である程度無理をせずに楽にプレーしているように見える。こうして、今季のリーガ・エスパリョーラは「ドリームチーム」から「リアルチーム」に舵を切ったバルセロナの独り勝ちといった様相を愈々深めつつある。


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